2019年9月30日月曜日

続・私の院試体験(10)

・2019年4月中旬(2)
こうしたストレスを受けて、私の体調は坂を転がるように悪化していった。睡眠が浅くなり、常に倦怠感を覚えるようになった。私は、東大時代に処方されていた睡眠導入剤を毎日のように服用するようになった。
私は、自分は無理をしてでも研究をしなければならない、それ以外に道はないのだと思っていた。能力の不足は、努力によって補えばよいのだと信じていた。私は焦燥に駆られていた。急ぐあまり、論文を読む目が滑って文章が頭に入らない。さっきから同じところを何度も何度も読んでいる。視線が文字列の上を虚しく滑る。頭が空転する。おかしい、こんなはずでは。授業やゼミどころか、もう論文やマニュアルさえも何が書いているのかわからない。私は、気付けば文章が読めなくなっていた。
毎日、何も楽しくなかった。研究室で仲良く話せる人もいなかった。大学に行きたいという気持ちは、すっかり消失してしまっていた。それでも気合を振り絞って大学に行って、疲れ切って帰ってくる。食欲も次第に減退しつつあった。ご飯を食べても美味しくなかった。
自分は何をしているのか、自分は何がしたいのか、自分は何をすれば楽しくなるのか。何もかもがさっぱりわからなくなったまま、私は今までの自分の行動をなぞるようにして灰色の生活を送っていた。

・2019年4月下旬
私は、いつも通りに研究室へ向かっていた。頭の中はぼんやりと霞み、口は異様に渇いている。廊下を歩いていると、不意に胸から何かがこみ上げてくるのを感じた。気分が悪い。トイレに駆け込み、洗面台に向かう。吐き気が私を襲い、かがんで淀んだ声を漏らす。だが、口からは何も出て来ない。息を切らしながらトイレから出た。
"呪縛"(*1)だ。"呪縛"のせいだ。"呪縛"が私を絞めたのだ。私は、自分に思ったよりも早く破綻が訪れたことに驚いた。京大生になってから、まだ一月と経っていない。この調子では修士を卒業するのがせいぜいで、博士まで5年間もここにいることはできないだろう。D進(*2)していては体が持たない。"呪縛"と縁を切るためには、研究者への道を諦めることが一番だ。こうなってしまっては仕方がない、俺も就活を始めようか......。
しかし、2年間しか研究をしないのならば、前回の記事の始めで述べた「情報熱力学的観点からの考察」までたどり着くことはできそうもない。ただQM/MM計算をしてそれで終わり、がやっとだろう。それではちょっとつまらない。私は化学には興味がなかった。2年間しか研究をしないのならば、もっと他に良い研究テーマがあるはずだ。この際、生命現象に直接関係するテーマでなくていい。物理畑出身の私が、どこか2年間耐え忍ばなくても面白さを感じながらやっていけるような場所はないだろうか?

......A研だ。

一口に物理の研究をすると言っても色々な選択肢が考えられるが、一番確実で一番良いのは駒場のA研に行くことだろう。ざっと考えただけでも、A研にする理由はこれだけある:
  • 面白さが早めに感じられるような研究をするためには、自分の卒業研究に直接関係する研究テーマに取り組むのが良いだろう。それはA先生の専門分野である。
  • 去年の院試の頃は知らなかったが、自分の興味に近い研究もできそうだ。
  • A先生は議論をしていて一番楽しい先生だった。
  • A先生の熱意に触れていると、物理の楽しさを再認識できる気がする。
  • A研に配属された同級生の卒業研究が面白かった。
  • その同級生から話を聞く限り、A研は指導方針がとても良さそうだ。
  • A先生は家庭を大切にしていることがひしひしと感じられ、好感が持てる。
  • 駒場なら友達の面では心配ない。
ならば、本当に総合文化研究科(*3)を受けてA研に行ってしまおうか。いや、そう決断するにはまだ早い。自分がこれから回復するのであれば、また院試を受ける必要などどこにもない。
そして、回復する可能性はあるはずだ。そう、私の切り札、私の世界に彩りを与えてくれるであろう存在 ーー 「彼女」。ああ、彼女と結ばれることさえできれば......。ここまで考えて、私は愕然とした。
彼女のことを考えても、かつてのように胸がドキドキと暴れない。彼女の姿を思い出しても、心が凍って動かない。私の世界を覆い尽くしていく灰色は、今や、あれほど切実だった恋愛感情までもを塗りつぶしつつあったのだ。

・2019年4月26日(1)
ゴールデンウィーク前の最後の平日、私はある病院の精神科に来ていた。睡眠導入剤の残りが少なくなっていたためだ。このペースで飲んでいると、ゴールデンウィークに帰省している間に枯渇する。私は睡眠導入剤が欲しかった。受け付けで睡眠障害を訴え、精神科医の診察を受けた。私の話を聞いた先生は、一つのチェックシートを差し出した。私はそれに回答し、そして更に問診を受けた。

私は鬱病と診断された。(続く)

(*1)ref.「続・私の院試体験(3)」
(*2)博士課程進学のことを指す俗語。
(*3)統合自然科学科からそのまま進学する場合、総合文化研究科というところを受験することになる。

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2019年9月29日日曜日

続・私の院試体験(9)

・2019年3月中旬~2019年3月下旬(2)
造幣局の工場見学予約サイトにアクセスしてみたところ、3月の見学枠は既に予約で埋まっていた。そこで私は食品工場の見学を提案したのだが、彼女が足を痛めてしまったということで、春休みには結局どこにも行けなかった。

・2019年4月上旬
私は東京大学を卒業し、京都大学の大学院に入学した。私は早速研究室に行って、先輩から指導を受けながらPCのセットアップなどを進めていった。
私の研究対象は、あるイオンポンプ(*1)タンパク質だった。私は、
  1. まず、QM/MM法を用いて、このイオンポンプの機構を化学的視点で解明する。
  2. 次に、そのデータを用いて、イオンポンプの動作原理を情報熱力学的観点から考察する(*2)。
という流れで研究を進めていこうと考えていた。私は張り切っていた。私は、博士課程に進学し、そして大学教員を目指していく前提でいた。そして、研究者としてアカデミアの世界で生き残るためにも、学振DC(*3)に採用されたいと思っていた。DC1に応募するのは修士2年の始めであるから、修士1年の間に申請書に書けるような業績を出すことが必要である。私は早く成果を出したかった。
最初にすることは、先行研究の論文を読むこと、そして使用する量子化学計算ソフトの使い方を学ぶことである。私は論文とソフトのマニュアルを読み進めていった。
研究の裏で、「彼女」ともコンタクトを取っていた。私は、春休みにどこにも行けなかった代わりに、ゴールデンウィークにどこかに行こうと提案した。そして、彼女もそれを承諾した。上手くデートの約束を取り付けることができて、私はほっと一安心した。

・2019年4月中旬(1)
「彼女」とのやり取りは、どこに行こうかという話題へと移っていた。休日も見学者を受け入れている工場は少なく、私は行き先選びに困っていた。どこか行きたいところがあるかと聞いてみたところ、彼女はダムに行きたいと答えた。これを受けて、次は神戸布引ハーブ園に行くことに決めた。ここは、近くにダムがあるのである。
行き先を決めた私の頭には、告白という選択肢がちらつき始めた。ダムなら、景色も良く、静かで人も少ないだろう。むしろ、ここ以上に告白に適した場所、適した機会があるだろうか。それに、ゴールデンウィークが終わってしまえば、学部を卒業して忙しくなった彼女を誘い出す口実はほとんどなくなる。それならば、ゴールデンウィークのうちに告白してしまって、恋人という地位を早々に得てしまうのが得策なのではないだろうか。今まで恋人がいたことがなく、自分から告白したことも誰かに告白されたこともないということは、彼女は誰かが告白してくれるのを待ち続けているということだろう。今告白しても、勝算は十二分にあるはずだ。私はそんなことを考えていた。

さて、授業も2週目に入り、新学期が本格的に始動した。そして、研究室のゼミも開始された。ゼミには、研究室のメンバーが持ち回りで研究の発表を行う「全体ゼミ」と、量子化学に関する課題を解いて提出する「B4M1(*4)ゼミ」の2つがあった。しかし、困ったことに、どちらも訳がわからなかった。話を聞き流していればそれで済む全体ゼミはまだしも、B4M1ゼミは課題が解けないと話にならない。先生の説明はよくわからないし、他のメンバーとはあまり親しくなれていなくてどう接して良いかわからなかったし、Slack(*5)で尋ねてみたところで誰も答えてくれないこともしばしばだった。私は何時間もゼミ室で一人居残ってやっとのことで終わらせたが、この状況にはほとほと参って疲れてしまった。
私は、物理中心の教育を受けてきたため、化学の知識が足りなかった。ゼミにせよ、授業にせよ、そのせいで分からないことも多かった。私は焦っていた。課題を前にさまよっている時間が、何も理解できないままにただ座っている時間が、前に進めずに自分の無能さを恨んでいる時間が、苦痛に感じられてならなかった。言っていることが理解できない。理解できないから、つまらない。自分に必要なのはこういった話ではないのに。ああ、その時間があれば、論文をどれだけ読めただろうか、マニュアルをどこまで進められただろうか......。
私は、早くただ論文やマニュアルを読んでいるだけの段階を終えて、計算をする段階に移りたかった。だが、自分が立てた目標は、追えば追うほど蜃気楼のように遠ざかっていった。たかだか院試をパスしたというだけで、研究を始めるにあたっての基礎的な能力が何か保証されるわけではない。その当たり前の事実に、私はこのときまで全く気付いていなかったのだ。(続く)

(*1)生体膜を通して物質を運ぶタンパク質(膜輸送体)のうち、物質を低濃度側から高濃度側へ運ぶ(能動輸送)役割を担っているもののこと。輸送の際にエネルギーを消費する。
(*2)私の問題意識について、この脚注でより詳細に説明しておこう。私が研究対象としようとしていたタンパク質は、KR2と呼ばれる光受容性輸送体であった。KR2の立体構造は既に知られている(Kato et al., 2015)。さて、このKR2の動作原理に関しては、図1に示すような「パナマ運河モデル」が提唱されている(Kandori, Inoue & Tsunoda, 2018)。これは、状態3から状態4に移るときの、船を「持ち上げる」操作がタンパク質の形の変化に対応する、とするものである。
図1 (A)「運河」の様子。(B)対応するイオンポンプの様子。二つの門が開閉することにより標的イオンが輸送される。このモデルでは、状態3から状態4に遷移する際にエネルギーを利用するとされる。
図の出典: Kandori, Inoue & Tsunoda (2018). p. 10647
ただ、私はこれに納得がいかなかった。図1-Bを見る限り、状態3から4の遷移で標的イオンが仕事をされているようには思えない。これはむしろ、3Aセメスターの「数理生物学」の授業(ref. 「振り返り: 3Aセメスターの授業」)で習った「マクスウェルの悪魔」を実現するものの1つ(例えば、Toyabe, Sagawa, Ueda, Muneyuki, & Sano (2010)は実際にそのような系を組み上げている)としてみるべきだろう。そう考えるならば、エネルギーを要するのは状態7から8の、系を最初の状態に戻す過程になるはずである(Sagawa & Ueda, 2009)。私は、実験よりも時間分解能の高いシミュレーションの結果を使うことで、前述の予想を検証し、イオンポンプにおける輸送に関して粒子位置の"情報"が果たす役割を知ることができるのではないかと考えた。生物や化学の人にはあまり知られていない情報熱力学の理論を使うことで、一定のオリジナリティを発揮しようという目論見だった。 以上が「情報熱力学的観点からの考察」 という言葉の意味するところである。
(*3)博士課程の学生を対象にした、「日本学術振興会特別研究員」の制度のこと。これに採用されると、日本学術振興会から給与や研究費を受け取ることができる。採用された人の多くが常勤研究職に就いていることから、研究者への登竜門ともされる。ref.「特別研究員-DCの就職状況調査結果について」(日本学術振興会)
(*4)B4は学部4年生、M1は修士課程1年生の意味。
(*5)チャットができるコミュニケーションツール。おおよそ、研究室メンバー用の掲示板のようなものだと思ってもらえればいい。

[参考文献]
  • Kato, H. E., Inoue, K., Abe-Yoshizumi, R., Kato, Y., Ono, H., Konno, M., … Nureki, O. (2015). Structural basis for Na+ transport mechanism by a light-driven Na+ pump. Nature, 521, pp. 48-53. https://doi.org/10.1038/nature14322.
  • Kandori, H., Inoue, K., & Tsunoda, S. P. (2018). Light-Driven Sodium-Pumping Rhodopsin : A New Concept of Active Transport. Chemical Reviews, 118, pp. 10646–10658. review-article. https://doi.org/10.1021/acs.chemrev.7b00548
  • Toyabe, S., Sagawa, T., Ueda, M., Muneyuki, E., & Sano, M. (2010). Experimental demonstration of information-to-energy conversion and validation of the generalized Jarzynski equality. Nature Physics, (12), pp. 988–992. https://doi.org/10.1038/nphys1821
  • Sagawa, T., & Ueda, M. (2009). Minimal Energy Cost for Thermodynamic Information Processing: Measurement and Information Erasure. Physical Review Letters, 102 (25), 250602. https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.102.250602

2019年9月28日土曜日

続・私の院試体験(8)

・2018年12月下旬~2019年2月中旬
私はT君の言葉が引っかかっていた。すぐには受け入れがたい助言だったが、尤もといえば尤もな感じがした。問題は、私が自殺するのか、しないのかだった。
考えてみると、私は自殺を先送りにするばかりで、真面目に考えることを避けてきた。自殺するのであれば今死ねばいいし、自殺しないのならば自分が幸せになれるよう精一杯の努力をすればいい。それを中途半端にしているからデッドロック状態に陥ってしまっているのである。となれば、私は今すぐ自殺できるのだろうか。今ここで首をくくる、そんな選択が私に可能なのだろうか。
そんなことはできなかった。私は、その実、自殺を実行するには程遠いところにいた。死それ自体よりも、死に至るまでの痛みのことが恐ろしかった。私は、自殺はおろか、もっと致死性の低い自傷行為すら恐れるような人間なのだ。私には希死念慮こそあれど、自殺願望などどこにもなかった。であれば、私にできることは、余程のことがない限り自分はこれからも生き続けなければならないという事実を受容することだけだった。かくして、私は自らの幸せを実現するために努めるよう方針を転換することにした。
そして、ちょうどこの頃、私は「彼女」が私と同様にこの春から関西地方に引っ越すことを知った。これはチャンスだ。私は、卒研が仕上がって落ち着いたら「彼女」へのアプローチを始めようと心に決めた。

ところで、その卒研は2月初頭の発表会に向けてちょうど最大の山場を迎えていた。教科書はキリのいいところまで読み進められたため、導出できた式を使って実際に計算をしてみようという話になった。これこれこんなモデル(*1)に対して理論を適用してみたいです、と私が言ったところ、K先生はそれで行こうとGOサインを出してくれた。私は実際に計算するためのプログラムを書き始めた。
プログラミング作業は発表会の前日ギリギリにまで及んでしまったが、どうにかこうにか計算を終えてデータを出力することができた。無事に発表を終え、報告書も提出し、私の卒研は一応の完成を見た。「続・私の院試体験(5)」の冒頭で述べた、3つの重要事項はこれにてコンプリートである。
卒業研究発表会では、統合自然科学科ならではのバラエティ豊かでユニークな話を色々聞くことができて楽しかった。中でも、A研の学生の発表は学術的な面で特に印象に残ったものの一つ(*2)だった。シンプルな設定から非自明な結果が出てくるシミュレーションの妙味に感服するとともに、「へー、A研ではこういう方向の研究もありなのか。これは自分の興味に割と近いかもしれない(*3)な」と思ったものだった。

・2019年2月下旬~2019年3月上旬
引っ越し準備の傍、積極的に友達と食事に行ったり、宿に泊まってボードゲームで遊んだりして引き続き東京での思い出作りに勤しんだ。特に、おくと行った火力発電所は最高だった(*4)。首都圏での遊びを締めくくるにふさわしい集大成であった。
3月の上旬に京都に引っ越した。しばらくの間は生活基盤を整えることに専念していた(*5)。

・2019年3月中旬~2019年3月下旬(1)
時は来た。私は「彼女」に連絡を取り、彼女を街へと呼び出した。一緒にランチを食べ、街を少し歩いて、喫茶店でコーヒーを飲んだ。
東京で思い出作りをした経験がここで活きた。友達と火力発電所に行ってきた、という話をすると、彼女が強く食いついてきた。
「ああー!楽しそう、私も火力発電所行ってみたい。都会ってそういう楽しみ方があったんだ。私の周りにはそういう友達いなかったから、思いつかなかった。もっと早く知りたかったな」
「じゃあ、今度俺と行かへん?関西圏やと......例えば、造幣局とかどうかな」
「造幣局!行ってみたい!」
「よし。来週、春休みのうちに行こう。帰ったら工場の予約調べてみるわ」
......手応えありだ。これ以上望むべくもないほど上手く事が運んだ。いける。この調子なら、きっといける。最早、あとは俺が告白するのを待っているだけと言っても過言ではないのではないか(*6)。私はそんなことを考えながら家路に就いた。しかし、まさか火力発電所に食いつくとは、流石は「彼女」。やっぱり彼女は最高だな......。家に着いた私は、自らの彼女に対する恋愛感情がこれまで以上に大きくなっていることに気が付いた。そう、私は、今や否定の余地もないくらい、爆発的に、どうしようもなく、抑えがたいほどに、彼女のことを好きになっていたのだった。(続く)

(*1)このモデルは、A先生の授業の中で扱われたものだった。A先生は粗い近似を用いて計算していたが、勉強した理論を使えばもっと精密に評価できるはずだと思い、それを実際にやってみることにした。
(*2)学術的な面で印象に残った発表もあれば、学問とは関係のない点で印象に残った発表もあった。
(*3)その学生は、高密度な2成分流体の相分離及びガラス転移をテーマに研究していた。私は、A研にはもっと平衡状態に近い静的な系の理論を研究しているイメージを持っていたので、その学生が本質的に非平衡でダイナミックな系の研究をしていたことが少々意外に感じられた。非平衡現象は私が関心を抱いていたテーマの一つだった。また、相分離が様々な生命現象に関わっている(白木, 2019)だとか、細胞内の分子混雑が生命現象において重要な意味を持っている(柳澤&藤原, 2015)だとか、代謝に関連して細胞質のガラス転移が起こっている(Parry, Surovtsev, Cabeen, O’Hern, Dufresne & Jacobs-Wagner, 2014)だとか、生命科学の分野にも色々と関連する面白い話がある。
(*4)ref.「横浜: 磯子火力発電所ほか」
(*5)ref.「3/5 - 3/12: 転居」
(*6)ここまで思った背景には、火力発電所の件の他にも、「彼女」が恋人いないアピールをしてきたという一件があった。ref.「初恋(2)」

[参考文献]
  • 白木賢太郎, (2019). 相分離生物学. 東京化学同人, 東京 .
  • 柳澤実穂 & 藤原慶, (2015). 総説 高分子混雑効果を細胞モデル系から読み解く. 生物物理, 55 (5),pp. 246-249.
  • Parry, B. R., Surovtsev, I. V., Cabeen, M. T., O’Hern, C. S., Dufresne, E. R. & Jacobs-Wagner, C., (2014). The Bacterial Cytoplasm Has Glass-like Properties and Is Fluidized by Metabolic Activity. Cell, 156 (1–2), pp. 183–194. https://doi.org/10.1016/J.CELL.2013.11.028

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2019年9月27日金曜日

続・私の院試体験(7)

・2018年8月~2018年9月中旬
私は北大と京大の試験を受け、その両方において第一志望の研究室に合格した(*1)。私は京大に進学することに決め、春からは理学研究科化学専攻の研究室に所属することになった。QM/MM法(*2)(*3)で生体内化学反応の機構を理論的に解明することを目指している研究室であった。

・2018年9月下旬~2018年10月上旬
私は院試に合格した旨を卒業研究の指導教員のK先生に報告し、卒研の方針について話し合った。大学院から取り組む予定の分子動力学シミュレーションはK先生の専門分野ではなかったが、K先生は自身の専門と分子動力学シミュレーションを接続するような分野を一緒に学んでいこうと言ってくれた。そうしていくつか提案してもらった候補の中から、私は自分の卒研のテーマとして液体論(*4)を選んだ(*5)。かくして、液体論の教科書 "Theory of Simple Liquids - with Application to Soft Matter 4th Edition" (Hansen & McDonald, 2013)を読み進め、勉強した内容を週に一回K先生の前で発表する、というスタイルで卒研を進めていくことになった。

・2018年10月中旬~2018年12月上旬
もうすぐ東京を離れることになったため、引っ越しまでに東京らしいことでもしておこうと思い、浅草でどぜう鍋を食べたり東京証券取引所に行ったりした。特に、東京証券取引所に行った旨をblogの記事に書いた(*6)ところ、友人「おく」が関心を示し、次は一緒に行こうという話になった。そうして、おくと一緒に国会や最高裁を訪れた(*7)。
卒研の内容である液体論は、K先生というよりA先生の方の専門分野だった。そこで、K先生と議論しても解決できなかった疑問点はA先生に相談しながら教科書を読み進めていくことにした。A先生の説明は明快で分かりやすく、A先生と議論するのは楽しかった。また、4年生のAセメスターではA先生の授業を受けていたが、これもまた刺激的で面白いものだった。A先生の授業を受けていると、失われかけていた物理を楽しむ気持ちが戻ってくるような感じがした。

・2018年12月14日
いつものごとく学生控え室に行ってみると、学科の友人T君とおくが現れた。T君は言った。「ちょっと【如才】君にも聞いてみよう。何の話かというと、結婚問題ですよ」
2人は、出会いがない中でどうやって結婚しようか、という問題を議論していたようだった。T君によれば、同級生の中には結婚をしたいという人もいれば、まだ何も考えていないという人もおり、結婚に対する態度は様々だということだった。T君は私に尋ねた。「それで、【如才】君はどうなの。結婚したいの?」
私「それは......具体的な一人を想定して、そうですね」
T君「具体的な一人を想定して、そう......。それはどういうこと。アニメキャラとかアイドルとかと結婚したいって言ったら◯すぞ」
私「いや、ある程度交流のある、生身の人......です」
私は、自分に好きな人がいることを自白した。そこから、なぜ私が片想いを続けているのかという話になり、更にその背後にある希死念慮の話になった。T君は、「なんか結婚どころじゃなくなってきたぞ」と言って、何やら黒板に図を書きながら自らの死生観を語り始めた。それは、私が理解した限りでは、「自殺すること前提で生きて、生きる上で活力になるものを自ら捨てていっていてはいざ自殺しないとなったときに後悔するだろうから、自殺しないことを前提にして人生を考えるべきだ」(*8)という内容だった。そして、この言葉が私の初恋における一つのターニングポイントになったのであった。(続く)

(*1)ref.「私の院試体験」
(*2)系を量子力学(QM: Quantum Mechanics)で扱う部分と古典的な分子力学(MM: Molecular Mechanics)で扱う部分とに分けた上で、分子の時間発展の様子を計算する手法。反応過程を議論するには量子効果を取り込む必要が出てくるが、全てを量子力学で計算すると膨大な計算コストがかかってしまう。QM/MM法は全てを量子力学で扱うよりも計算効率が良く、溶液中のタンパク質などの大規模な系のシミュレーションを可能にした。私は、量子力学の知識を要するこのQM/MM法に関する研究に携わることで、物理中心の教育を受けてきた強みを活かしつつ生命科学の発展に貢献することができるのではないかと考えた。
(*3)私は、4年のSセメスターでは「レーザーを照射された窒素分子の電子の波動関数の時間発展の計算」をテーマにしていた。これは全てを量子力学で扱う化学計算である。しかし、窒素分子は小さすぎて、生命現象という観点からはあまり面白いものではない。生物屋にとっては、もっと大規模な分子について計算できた方が嬉しいのだ。このように、QM/MM法の研究室にしたことには4Sでの研究室選択の結果が関わっている。
(*4)液体の構造を扱う統計力学の分野。その応用として、量子化学計算と組み合わせたRISM-SCF法(Ten-no, Hirata & Kato, 1994)がよく知られている。このRISM-SCF法は、溶液中の化学反応を計算する上で重要なツールとなっている。
(*5)これは『ゆゆ式 1』(三上小又, 2009. p. 71)の影響であった。ref.「卒業研究」
(*6)ref.「日記: 東京証券取引所と水再生センターの見学」
(*7)ref.「12/11 午後」
(*8)私のblog記事「初恋(1)」より引用。最終閲覧日2019/9/27。

[参考文献]
  • 三上小又, (2009). 「ゆゆ式 1」. 芳文社, 東京.
  • Hansen JP. & McDonald l. R., (2013). Theory of Simple Liquids - with Application to Soft Matter 4th Edition. Academic Press, Cambridge.
  • Ten-no S., Hirata F. & Kato S., (1994). Reference interaction site model self‐consistent field study for solvation effect on carbonyl compounds in aqueous solution. Chem. Phys. Lett., 100. pp. 7443-7353.

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2019年9月26日木曜日

続・私の院試体験(6)

・2012年4月~2014年12月
思い返せば、私はもともと京大志望だった。父は、時々京都に住んでいた大学時代の思い出を語ってくれた。私は京都という土地に憧れの気持ちを抱いていた。高校1年生の8月には、私は同じクラスの友達と京大のオープンキャンパスに行き、京大への憧れを強めて帰ってきた。ただ、自分に京大に行けるだけの学力があるとは、そのときは全く思っていなかった。
私が入った高校の卒業生で、私が入学するまでに京大に行った人は確か1人しかいなかったはずだ。東大には0人である。そして、高校1年生の頃の私は、学年1位の成績というわけでもなかった。京大に行くのが現実的な未来だとは思えなかった。
転機は高1の冬に受けた駿台模試だった(*1)。ここで、私は自分の成績が全国でも相当高いレベルにあることを知った。模試の結果は、この調子で行けば京大だろうと東大だろうと私が志望しさえすれば大体合格するであろう、ということを告げていた。私は驚愕した。 同時に、私は志望校を決めることができなくなった。折角だから、東大に行っておいた方がいいのだろうか。しかし、京大の自由の学風にも憧れるしなあ......。
そうして時は過ぎ、私は志望校を曖昧にしたまま高3の冬を迎えた。12月、担任の先生と母を交えて進路について話し合う三者面談があった。そこで担任が放ったのが、「どこ受けても通るやろうから、(志望校を決められないのであれば)サイコロ振って決めたらええ」という言葉だった。私はその言葉に感銘を受けた。今まで自分の進路を真面目に考えていたけれども、考えても答えが出ないのなら真面目に考えなくてもいいか。私はそういう気分になった。

・2015年1月~2015年3月(2)
結局、私は何となく東大を受けた。受験勉強に関しては、特に何に苦労したということもなかった(*2)。合格発表の当日、私は部屋探しのために東京に来ていた。自分の受験番号があることを前提にした行動だった。自らの合格を知った瞬間の私の胸に喜びはなく、ただ安堵だけがあった。
私は、本当にこの選択で良かったのだろうかという不安を胸に抱きながら、渋谷(*3)の街に降り立った。慌ただしい喧騒に包まれながら、私はどこか長閑さのある京都の鴨川の風景に思いを馳せていた。

・2018年7月下旬
さて、物理学のバックグラウンドを活かして生命の研究をするに当たっては、ざっくり分けて2パターンの方向性が考えられた。
1つは、熱力学のように現象論的なモデルを構築することを目指す研究である。ただ、この方向の研究は、目標と現状の乖離が非常に大きいように感じられた。トップダウン的に理論からアプローチするのには大いにセンスが必要そうであったし、ボトムアップ的に実験からアプローチするにしても有効なモデルを構築するのには程遠いのではないかと思われた。発想としては面白いのだが、どうにも自分に務まる気がしなかった。
もう1つは、生命現象のうち解析に物理学の知見が活かせるものを切り出して、そのメカニズムを詳細に調べるような研究である。第4回で述べた渡り鳥の磁気コンパスの研究もこれに当たる。ただ、生命現象を切り出してその仕組みを詳細に調べたとしても、生命というシステム全体のことは何も分からないのではないかと感じられることが気がかりだった。
悩んだ末に、私は両方の間の子のようなアプローチを取ろうと考えた。それは、情報熱力学の観点から生体内の化学反応を理論的に考察することで、生物における情報処理システムの一般論に迫ろうという作戦であった。化学反応の理論をテーマにするというのは、Sセメスターで化学の研究室に配属されたという流れを汲んだものだった。こうして、私は京大と北大の2つの大学の大学院を受験することにした。
北大はともかく、京大を受けることにしたのはもちろん意図的なチョイスだった。私は京都に住むための口実を欲していた。大学院受験は、私にとってまたとない機会だったのだ。私は、京大の中で一番私の思想に近そうな研究室を探し出し、そこを第一志望として出願した。(続く)

(*1)これ以前にも、高校で強制受験だったベネッセの進研模試は受けてきた。だが、低難易度かつ採点ミスの多い進研模試では、私の学力をまともに測れていなかった。
(*2)これは、大学入学後のキャパオーバーの遠因になった。いわば、私は頑張り方を知らなかったのだ。
(*3)新幹線が停まるJR品川駅から東大駒場キャンパスに行くときの乗換駅。人が多く、うるさく、動線が悪くて迷いやすい。

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2019年9月24日火曜日

続・私の院試体験(5)

・2018年4月
4年生になった。大学院入試の出願先を決めること、大学院入試を突破すること、卒業研究を完成させること。この3つが4年生の1年間における最重要事項である。
さて、4年生になると授業のコマ数は3年生の頃よりも減る。その分を研究や院試に向けた自習に充てるのが常道である。ところが、この頃になると、私の憂鬱はいよいよ抑えがたくなっていた。私はほとんど必要最低限レベルの研究しかしなかったが、かといって自習を進めたわけでもなかった。私の勉強時間はただただ減っていく一方だった。私は疲れ切っていた。私は睡眠障害を発症し、睡眠導入剤を処方されるようになった。
私の希死念慮は日を追うごとに深まっていった。生きることに楽しさが感じられず、食事などをして生命活動を維持することが面倒に感じられてならなかった。しかし、いくら生きるのが面倒だったとしても、食事を取らなければ空腹になって耐え難い苦痛に苛まれる。私は、楽しむためでもなく、生きるためでもなく、ただ空腹の苦しみを回避するために食事をしていた。私は空腹と苦しみを紐付けた生命のシステムを恨んだ(*1)。私の肉体は、私に生きさせたいがために、快楽というアメと苦痛というムチを準備していた。私は、「生」という、自分の肉体に雁字搦めにされている状態に腹が立って仕方がなかった(*2)。早く死んで、この世の一切の苦しみから解放されたいと私は願った。だが、私がいくら願ったところで、自分がひとりでに死ぬなんてことは起こらなかった。
私は死にたかった。死ぬときに感じるであろう苦しみのことを想像すると今すぐ自殺しようとは思えなかったが、将来的には自殺することも視野の中に入れていた。ゆえに私は、自分は「彼女」と結ばれてはならないと考えた。自分が死んで悲しむ人を、いたずらに増やすわけにはいかなかった。私は、自らの恋を実らせるための努力を放棄することにした。

・2018年5月~2018年7月中旬
5月の中頃、卒業研究における研究室配属の希望調査票が配布された。Aセメスターの卒業研究では、Sセメスターで所属した研究室を引き続き志望してもよいし、他の研究室に変えてもよい。また、Sセメスターで選択できる研究室は実験系のラボ中心であるが、卒業研究では選択肢に理論系の研究室が大幅に追加される。このため、実験系志望の学生は研究室を変えず、理論系志望の学生は研究室を変えるということが多い。私は理論の研究室へと移ることにした。
駒場には生命の理論を扱っている研究室がいくつかある。これらは有力な候補だったが、先生が一癖も二癖もある少々変わった人たちであった。実績も人気もある強い研究室ではあったのだが、私はこのノリについていけない感じがした。そこで、生命ではなく物性の理論を扱っているラボに行くことを選んだ。結局、「言っていることの意味が分かりやすい(*3)」「研究テーマ選びが柔軟」「先生から情熱を感じる」といった理由で、K先生(仮名)の研究室にすることにした。
他にA先生(仮名)の研究室も検討したが、A研では大学院でA研に進学する人以外は本を読んでその内容をまとめるだけで終わりにする予定だという話だった。それではつまらない、自分で計算もやってみたい。私はそう思ってA研ではなくK研に出した。そして、希望通りK研に決まった。(続く)

(*1)言い換えれば、私は、自分が研究したい対象を憎んでいた。
(*2)ref.「美味い飯を食うと満足感が得られるの、俺の設計者が俺をそうやすやすとは死なせないために作り上げた快楽装置だと思うとムカついてきた」
(*3)当然のことながら、言っていることの意味が分かりやすい先生もいれば、分かりにくい先生もいる。

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2019年9月23日月曜日

続・私の院試体験(4)

関連記事:「初恋」 

・2017年1月~2017年3月
「彼女」(*1)は、そんな私の前に現れた。彼女は、誠実で、謙虚で、実直な人だった。彼女は成績優秀な学生だった。私は彼女に尊敬の念を抱いていた。だが、彼女は決して完璧な超人というわけではなかった。その成績は、彼女の並々ならぬ勤勉さによって支えられたものだった。彼女が私の前で吐露したのは、大学の勉強についていくことの大変さだった。彼女は、私の苦悩の一部を共有できた相手だった。彼女と話すのは楽しかった。ああ、こんなにも話の分かる人だったとは。私は心安らぐ思いがした(*2)。帰宅したとき、私は彼女にまた会いたいと感じた。それが恋心の萌芽だったとは、このときは想像だにしなかった。

・2017年4月~2017年12月
気付けば、私は「彼女」に友情以上の特別な感情を抱くようになっていた。それは初めての体験だった。私は、自分自身の内面の変化にどう対処すればよいのか分からなかった。私は時間をかけて自分の感情に向き合い、そしてその感情が恋愛感情であることをゆっくりと受け入れていった。両親の不仲により、私の中では恋愛への不信感が形成されていたのだが、彼女ならそれも融かしてくれるのではないかと思われた。
学年が上がって3年生になり、勉強は一層ハードさを増した。それと歩調を合わせるように、私の学問第一主義の思想も一層先鋭化していった。先鋭化された思想は私の行動を制限し、閉じられた人間関係の中で「彼女」以外の選択肢は覆い隠された。更に、絶望と憂鬱のスパイラルは、絡まり合って希死念慮という塊を作り上げた。かくして、私の心の中では恋愛感情と希死念慮の両方が日に日に膨張していった。

・2018年1月~2018年3月
4年生への進級を目前に控え、Sセメスター(*3)分の研究室配属の希望調査票が配られた。どこの研究室を志望するかは難しい問題だった。物理学を基盤として生命現象を理解したいといっても、具体的にどうすればよいのか、どういうことをすれば自分が今まで身につけてきた知識を活かすことができるのか、どうすれば生命現象を”理解”することができるのか、いくら考えても結論を出すことはできなかった。
私はこれまで物理学と数学を中心に勉強してきており、生物学には疎かった。そのため、自分には物理学色の強い研究の方が有利であるように思われた。しかし、そうした物理に立脚して生命の生命らしさを探っていくような研究は、私が想像していたよりも発展途上の段階にあった。天才の現れを待たない限り、物理寄りのアプローチをしても私が知りたいことは何も分からないのではないかと感じられた。一方で、生命寄りの実験に取り組むこともためらわれた。私は生命科学の基本的な実験操作に習熟しておらず、生命実験をする上で不利なように思われた。私は、今まで勉強してきた物理学をなるべく直接的な形で活かしたいと考えていた。 色々と悩んだ果てに、窒素分子にレーザーを当てたときの様子を調べている、「分子分光学」と呼ばれる分野の研究室を志望することにした。その主な理由としては、
  • 量子力学の世界を実験的に体感することで、より深く物理学を理解できると考えた。分子分光学の世界は固体物理の世界よりも起こっている現象とシュレーディンガー方程式(*4)との対応が分かりやすく、学習の素材として向いていると思われた。
  • 大学院からの研究テーマ候補の1つとして「渡り鳥の磁気コンパス(*5)の仕組みの解明」というものを考えており(*6)、分子分光学的研究における実験操作に習熟することはその研究をする上でプラスになると考えた。
  • 先生が優しく暖かい人柄をしていた。
といったものが挙げられる。他に同じ研究室を希望した学生はおらず、私の希望は自動的に叶えられた。こうして、生物学とは直接的には何の関係もない、化学(*7)の研究室に配属されることになった。(続く)

(*1)もちろん、「初恋」の「彼女」と同じ人物を指している。
(*2)この頃の私は、しばしば友人たちがお酒やバイトや異性の話で盛り上がっている場面に遭遇した。私はそういった輪にうまく入ることができず、その度に疎外感を覚えていた。
(*3)東大では、4月から9月にかけての年度の前半をSセメスター(夏学期)と呼ぶ。年度の後半はAセメスター(秋学期)である。いわゆる前期と後期なのだが、東大で前期・後期というと前期課程(1年生と2年生)・後期課程(3年生以降)のことを指すことが多い。
(*4)量子系の時間発展を記述する方程式。量子力学の基本原理である。
(*5)光受容性タンパク質「クリプトクロム」が渡り鳥の磁気コンパスに関与していると考えられている(Ritz, Adem & Schulten, 2000)。
(*6)溶液中でクリプトクロム内のラジカル対の様子を観察するための手法が2015年に東大で開発されている(Beardmore, Antill & Woodward, 2015)。
(*7)通常、分子分光学は化学の一分野に位置付けられる。

[参考文献]
  • Beardmore J. P., Antill L. M. & Woodward J. R., (2015). Optical absorption and magnetic field effect based imaging of transient radicals. Angew. Chem., 54. pp. 8494–8497.
  • Ritz T., Adem S. & Schulten K., (2000). A model for photoreceptor-based magnetoreception in birds. Biophys. J., 78. pp. 707-718.

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2019年9月22日日曜日

続・私の院試体験(3)

・2016年9月~2016年12月(2)
私の将来の夢は、子供の頃から一貫して、科学者になることだった。初めは、「生命の謎」を解くことだけが目的だった。知りたい謎があるから研究をする。それは科学者を志す理由として最も純粋で、最もシンプルで、最も自然なものだった。科学者の卵たるものかくあるべし。しかし、この動機は次第に変質していくことになる。
大学二年生になり、私は自らの人生設計を子供の頃よりも具体的に考えるようになった。このとき脳裏に浮かぶのは、心底つまらなさそうに仕事をする父の姿であった。父の仕事には、父を満足させるだけの知的刺激が欠けていた。
かつては私のどんな質問にも答えられた父も、私が成長して難しい質問を投げるようになるにつれて「昔勉強したけど、もう分からへんわ」と答えることが増えてきた。父は貪欲に学んできた(*1)はずなのに。私は、父の専門であった化学の知識が父の中ですっかり色褪せていることに気付くたびに、たまらなく悲しい気持ちになった。インプットとアウトプットのサイクルを回すことを止めたそのときから、頭の中に構築された学問の体系は錆び付き始めてしまうのだ。
私は、生涯に渡って知的刺激を受け続けながら生きていきたいと強く願った。そのためには、学問に関わる仕事に就くことが必要であった(*2)。そのような仕事として、私が思い付いた職業は研究者しかなかった。私は、研究者以外の仕事についても自分を満足させることはできないだろうと考えた。研究者になるしかない。どうしても研究者にならなければならない。研究者以外の道など考えられない……。かくして、私は研究者になるという夢に”呪縛”されることとなった。
言うまでもなく、研究を行うためには既存の学問体系をしっかりと理解することが重要である。物理学を理解できずして物理学の研究ができるはずもない。私は勉強しなければならなかった。知的好奇心を満たすために行っていたはずの勉強が、いつしか義務感によるものへと変化していた。私は知らなければならない。分からなければならない。しなければ。しなければ。勉強を、しなければ……。こうした考えに支配されていた私に、学外活動へ時間を割けるほどの精神的余裕などなかったのだ。
私は全てを勉学へと注ぎ込もうとした。しかし、それは結局叶わなかった。私は疲弊していた。勉強をすればするほど、勉強が楽しくなくなっていった。知的好奇心は擦り切れ、情熱の炎は燃え尽きていた。勉強の楽しさこそが、私を駆動していたエンジンだった。今や、そのエンジンが動かない。もう、何をすれば楽しいという気持ちが得られるのかすっかり分からなくなっていた。勉強も、学外活動も、家事も、ゲームで遊ぶことさえも、何も手につかない時間が増えていった。
夜になると、出口の見えない思考が頭の中を際限もなく巡った。私の寝付きは著しく悪くなった。それは集中力の低下をもたらし、勉強の効率を悪化させた。私は、思うように勉強を進められない自分自身を責めた。私が焦りを募らせるほどに理想と現実のギャップは開いていき、そのギャップに直面するたびに私の気分は重くなった(*3)。私は、自らの心臓部に根を張った呪縛に引きずられるようにして、絶望と憂鬱のスパイラルの中を落ちていった。(続く)

(*1)父は、大学二回生のときに法学部から理学部へと転学部している。そうまでして学びたいことがあったということである。
(*2)学ぶことは楽しい。だが、怠惰な私を動かすためには、それだけでは動機付けとして弱すぎる。学問の苦しさを乗り越えるためには、仕事という形で一定の強制力を自分に与えることが必要であると思われたのだ。
(*3)気分の重さを解消すべく、その正体を探ろうとして私は内省をするようになった。ref.「整理」

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2019年9月21日土曜日

続・私の院試体験(2)

・2016年5月~2016年8月
様々な学科を検討した結果、後期課程は教養学部統合自然科学科に進学することにした(*1)。生物学と物理学の境界分野に関心を抱いていた私にとって、自分で自由にカリキュラムを設計できる統合自然科学科はうってつけの選択肢のように思われたのだ。

・2016年9月~2016年12月(1)
私は無事に統合自然科学科に内定し、専門科目の勉強を始めた。私は物理学の基礎の上に立って生物を研究しようと考えていたため、2年生のうちは物理学と数学を中心とした時間割を組むことにした。
進学選択に伴い、前期教養のクラスの友達とは離れ離れになった。代わりに顔を合わせる機会が増えたのが同じ統合自然科学科に内定した同級生であったが、彼ら彼女らとはなかなか仲良くなれなかった。最初の懇親会で自己紹介の時間があった(*2)が、人を覚えるのが苦手な私はすぐに誰が誰だか分からなくなってしまった。教室はいつも静かで、休み時間にも会話はほとんど発生しなかった。私は、周りの学生たちにどう声をかけてよいものか分からなかった。そうして、誰とも何も話すことなく過ごす日々が増えた。私は孤独感を覚えた。
その頃、中学の頃からのある友人に恋人ができた。聞けば、彼は学外活動の中でその恋人と出会ったのだという。私の目には、隣の芝生が青く映った。私と違って、彼は勉強だけでなくバイトやサークル活動も器用にこなして彩り豊かな大学生活を送っているように見受けられた。私は彼を羨み、自分の寂しい生活と彼の華やかそうな生活を比較して落ち込んだ。今のままでは、恋人どころか友人を作ることさえままならない。既にサークル(*3)に入ってはいるが、もっと他に色々学外活動をやってみたい。私はそう考えた。
しかし、その思いを実際に行動に移すことはできなかった。自らの知的好奇心を満たすこと、それが私の人生における第一の目的だったからだ。私は勉強に追われていた。
いや、違う。私は勉強に自分自身を追わせていた。私は、研究者になるという夢に"呪縛"されていたのだった。

・子供時代
私は、父から強い影響を受けて育ってきた。父は知を愛していた。本をよく読み、面白かった本を私と共有してくれた(*4)。私が何か疑問を口にすれば、広い知識を活かして答えてくれた。勉強の面倒もよく見てくれた。私が何かやりたい実験があると言えば、一緒に準備してくれた。私に学ぶことの面白さを教えてくれたのが父だった。私は父を尊敬していた。私が研究者になりたいと思い始めたのは、他ならぬ父の影響だった。
ところが、かつては才気溢れる学生だったのであろう父も、今や好きでもない仕事に汲々とするサラリーマンに過ぎなかった。父は、小学生の頃の私が「パパが今(*5)しとるのはどういう仕事なん?」と無邪気に尋ねるその度に、自分がやっているのは「しょーもない仕事」だと言って自嘲した。父が仕事にやりがいを感じているようには到底見えなかった。ついでに言えば、父と母の仲もあまり良くなかった。私は、仕事と家庭両面に関する父の嘆きに接しながら育ってきた。
私は、何でも教えてくれる優秀な父を尊敬していたが、その一方で、”優秀”な父に対し尊敬だけではない複雑な感情を抱いていた。自分が父に似ていること、自分が疑いようもない父の息子であることを、私はよく自覚していた。父の姿は「最もありえそうな未来」における私の姿であると同時に、「どうしても避けたい未来」における私の姿でもあった。 父は私の模範ではなかった。私は父のようになりたくなかった。
私は、父が「しょーもない仕事」をする中で出会った、後に折り合いが悪くなる母との間に生まれた子供だった。父の人生を否定することは、すなわち自己の存在を否定することだった。私は、父の嘆きにどう接してよいか分からなかった。こうして私は自己存在に関するわだかまり(*6)を抱き、そしてそれを抱えたまま成長していった。(続く)

(*1)ref.「私の進学選択(3)」
(*2)当然、私も自己紹介した。後に友人から聞いたところによると、その内容が変だった(「20年間人間という生き物をやってきました」「好きなことは、高い筆圧で文字を書くことです」など)ために私はしばらく"ヤバい奴"だと思われていたらしい。自己紹介がもっとまともだったら、もっと早く同級生たちと打ち解けられていたのだろうか......。
(*3)当時、私は東京大学キムワイプ卓球会の会長を務めていた。
(*4)その中でも、当時小学五年生だった私に「生命の謎」に関心を抱かせ、私の興味の方向性を決定づけた本が「生物と無生物のあいだ」である。ref.「私のオールタイムベスト10」
(*5)父は、しばしば仕事を家に持ち帰り、休日も仕事に忙殺されていた。
(*6)ref.「初恋(1)」

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2019年9月20日金曜日

続・私の院試体験(1)

リンク:「私の院試体験」

最近、また院試に合格した。
整理すると、昨日京都大学理学研究科を退学し、本日東京大学総合文化研究科に入学したということである。一体何がどうなってこのような事態になったのだろうか。この連載を通じて、その経緯をまとめておこう。

・2015年1月~2015年3月(1)
当時高校3年生だった私は、センター試験が終わってもなお、自らの志望校を決めることができていなかった。私は、東京大学理科一類に出願するか、京都大学理学部に出願するかで迷っていた。センター試験の結果は十分に良かった。あとは自分の気持ちだけだった。しかし、自分がどちらの大学に進学したいのか、考えても考えても結論は出ないのであった。
考えに考え抜いた結果、私は「考えても無駄」だという考えに至った。私はその場の気分で何となく東京大学理科一類に出願し、そして見事合格を勝ち取った(*1)。

・2015年4月~2015年7月
私は東京大学理科一類に入学した。
私が最も大きな関心を抱いていた対象は生命であった。それは、とりもなおさず、自分自身に対する関心であった。我々は、生まれ、生き、やがて死ぬ。では、生きるというのはどういうことなのだろうか。私は、この、根源的な「生命の謎」を解き明かしたいと強く思った。私は、何か現象を理解するとは、「物理の様式で現象を記述し、その構造を咀嚼すること」だと考えていた。私は、生命現象を物理の様式で記述したい、その研究のために自らの一生を費やしたいと思っていた。私は、「生命の謎」を解くためなら、どんな厳しい勉強も厭わないつもりだった。「生命の謎」は、私の世界の絶対的な中心であり、私の生きる目的だった。
私は、大学での学びに大きな期待を抱いていた。大学では、好きなことを好きなだけ学んで大学という環境を使い潰してやろうと意気込んでいた。大学で学ぶ学問は、高校までのものとは比べ物にならないほどの広さと深さを持っているように感じられた。そこは、もはや広大な学問の沃野と言ってよかった。それがどれだけの広さと深さを持っているのか、私は何も知らなかった。私は次第に授業を理解することができなくなっていった。
入学前に抱いた期待は、次第に絶望へと変化しつつあった。私は、いくら勉強しても自分には何も理解することができないという無力感に支配された。それはすなわち、自分が生きる意味を見失うということを意味していた。
絶望と苦しみの中で、自然に私は"もう一人の自分" ーーあのとき京都大学理学部へ出願していた世界の自分ーー に思いを馳せるようになった。果たして、"彼"は今頃幸せに暮らしているのだろうか......。

・2015年8月~2016年4月
私は理想と現実の狭間でもがいていた。私は、教わったことの表層だけをなぞって当座を凌ぐ一方で、そのような学習に終始している自分自身を許しがたく感じていた。私は、より深く勉強するためにもっと時間が欲しいと思い始めた。そこで浮上した選択肢が、京都大学理学部への仮面浪人だった(*2)。
しかし、この仮面浪人作戦は、手続き上の失敗によって未遂に終わった(*3)。私は、そのまま東京大学の2年生になった。進学選択(*4)の足音はもうすぐそこに迫っていた。(続く)

(*1)ref.「志望理由(1)」「志望理由(2)」
(*2)ref.「私の進学選択(1)」「私の進学選択(2)」
(*3)ref.「私の進学選択(3)」
(*4)東京大学の学部入学者は、まず教養学部に所属して教養教育を受けたあと(前期課程)、各々の選好(と成績)に応じた学部学科に進学して専門教育を受ける(後期課程)。進学選択とは、後期課程で所属する学部学科を決定するための制度のことである。

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