2019年9月30日月曜日

続・私の院試体験(10)

・2019年4月中旬(2)
こうしたストレスを受けて、私の体調は坂を転がるように悪化していった。睡眠が浅くなり、常に倦怠感を覚えるようになった。私は、東大時代に処方されていた睡眠導入剤を毎日のように服用するようになった。
私は、自分は無理をしてでも研究をしなければならない、それ以外に道はないのだと思っていた。能力の不足は、努力によって補えばよいのだと信じていた。私は焦燥に駆られていた。急ぐあまり、論文を読む目が滑って文章が頭に入らない。さっきから同じところを何度も何度も読んでいる。視線が文字列の上を虚しく滑る。頭が空転する。おかしい、こんなはずでは。授業やゼミどころか、もう論文やマニュアルさえも何が書いているのかわからない。私は、気付けば文章が読めなくなっていた。
毎日、何も楽しくなかった。研究室で仲良く話せる人もいなかった。大学に行きたいという気持ちは、すっかり消失してしまっていた。それでも気合を振り絞って大学に行って、疲れ切って帰ってくる。食欲も次第に減退しつつあった。ご飯を食べても美味しくなかった。
自分は何をしているのか、自分は何がしたいのか、自分は何をすれば楽しくなるのか。何もかもがさっぱりわからなくなったまま、私は今までの自分の行動をなぞるようにして灰色の生活を送っていた。

・2019年4月下旬
私は、いつも通りに研究室へ向かっていた。頭の中はぼんやりと霞み、口は異様に渇いている。廊下を歩いていると、不意に胸から何かがこみ上げてくるのを感じた。気分が悪い。トイレに駆け込み、洗面台に向かう。吐き気が私を襲い、かがんで淀んだ声を漏らす。だが、口からは何も出て来ない。息を切らしながらトイレから出た。
"呪縛"(*1)だ。"呪縛"のせいだ。"呪縛"が私を絞めたのだ。私は、自分に思ったよりも早く破綻が訪れたことに驚いた。京大生になってから、まだ一月と経っていない。この調子では修士を卒業するのがせいぜいで、博士まで5年間もここにいることはできないだろう。D進(*2)していては体が持たない。"呪縛"と縁を切るためには、研究者への道を諦めることが一番だ。こうなってしまっては仕方がない、俺も就活を始めようか......。
しかし、2年間しか研究をしないのならば、前回の記事の始めで述べた「情報熱力学的観点からの考察」までたどり着くことはできそうもない。ただQM/MM計算をしてそれで終わり、がやっとだろう。それではちょっとつまらない。私は化学には興味がなかった。2年間しか研究をしないのならば、もっと他に良い研究テーマがあるはずだ。この際、生命現象に直接関係するテーマでなくていい。物理畑出身の私が、どこか2年間耐え忍ばなくても面白さを感じながらやっていけるような場所はないだろうか?

......A研だ。

一口に物理の研究をすると言っても色々な選択肢が考えられるが、一番確実で一番良いのは駒場のA研に行くことだろう。ざっと考えただけでも、A研にする理由はこれだけある:
  • 面白さが早めに感じられるような研究をするためには、自分の卒業研究に直接関係する研究テーマに取り組むのが良いだろう。それはA先生の専門分野である。
  • 去年の院試の頃は知らなかったが、自分の興味に近い研究もできそうだ。
  • A先生は議論をしていて一番楽しい先生だった。
  • A先生の熱意に触れていると、物理の楽しさを再認識できる気がする。
  • A研に配属された同級生の卒業研究が面白かった。
  • その同級生から話を聞く限り、A研は指導方針がとても良さそうだ。
  • A先生は家庭を大切にしていることがひしひしと感じられ、好感が持てる。
  • 駒場なら友達の面では心配ない。
ならば、本当に総合文化研究科(*3)を受けてA研に行ってしまおうか。いや、そう決断するにはまだ早い。自分がこれから回復するのであれば、また院試を受ける必要などどこにもない。
そして、回復する可能性はあるはずだ。そう、私の切り札、私の世界に彩りを与えてくれるであろう存在 ーー 「彼女」。ああ、彼女と結ばれることさえできれば......。ここまで考えて、私は愕然とした。
彼女のことを考えても、かつてのように胸がドキドキと暴れない。彼女の姿を思い出しても、心が凍って動かない。私の世界を覆い尽くしていく灰色は、今や、あれほど切実だった恋愛感情までもを塗りつぶしつつあったのだ。

・2019年4月26日(1)
ゴールデンウィーク前の最後の平日、私はある病院の精神科に来ていた。睡眠導入剤の残りが少なくなっていたためだ。このペースで飲んでいると、ゴールデンウィークに帰省している間に枯渇する。私は睡眠導入剤が欲しかった。受け付けで睡眠障害を訴え、精神科医の診察を受けた。私の話を聞いた先生は、一つのチェックシートを差し出した。私はそれに回答し、そして更に問診を受けた。

私は鬱病と診断された。(続く)

(*1)ref.「続・私の院試体験(3)」
(*2)博士課程進学のことを指す俗語。
(*3)統合自然科学科からそのまま進学する場合、総合文化研究科というところを受験することになる。

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