2019年9月22日日曜日

続・私の院試体験(3)

・2016年9月~2016年12月(2)
私の将来の夢は、子供の頃から一貫して、科学者になることだった。初めは、「生命の謎」を解くことだけが目的だった。知りたい謎があるから研究をする。それは科学者を志す理由として最も純粋で、最もシンプルで、最も自然なものだった。科学者の卵たるものかくあるべし。しかし、この動機は次第に変質していくことになる。
大学二年生になり、私は自らの人生設計を子供の頃よりも具体的に考えるようになった。このとき脳裏に浮かぶのは、心底つまらなさそうに仕事をする父の姿であった。父の仕事には、父を満足させるだけの知的刺激が欠けていた。
かつては私のどんな質問にも答えられた父も、私が成長して難しい質問を投げるようになるにつれて「昔勉強したけど、もう分からへんわ」と答えることが増えてきた。父は貪欲に学んできた(*1)はずなのに。私は、父の専門であった化学の知識が父の中ですっかり色褪せていることに気付くたびに、たまらなく悲しい気持ちになった。インプットとアウトプットのサイクルを回すことを止めたそのときから、頭の中に構築された学問の体系は錆び付き始めてしまうのだ。
私は、生涯に渡って知的刺激を受け続けながら生きていきたいと強く願った。そのためには、学問に関わる仕事に就くことが必要であった(*2)。そのような仕事として、私が思い付いた職業は研究者しかなかった。私は、研究者以外の仕事についても自分を満足させることはできないだろうと考えた。研究者になるしかない。どうしても研究者にならなければならない。研究者以外の道など考えられない……。かくして、私は研究者になるという夢に”呪縛”されることとなった。
言うまでもなく、研究を行うためには既存の学問体系をしっかりと理解することが重要である。物理学を理解できずして物理学の研究ができるはずもない。私は勉強しなければならなかった。知的好奇心を満たすために行っていたはずの勉強が、いつしか義務感によるものへと変化していた。私は知らなければならない。分からなければならない。しなければ。しなければ。勉強を、しなければ……。こうした考えに支配されていた私に、学外活動へ時間を割けるほどの精神的余裕などなかったのだ。
私は全てを勉学へと注ぎ込もうとした。しかし、それは結局叶わなかった。私は疲弊していた。勉強をすればするほど、勉強が楽しくなくなっていった。知的好奇心は擦り切れ、情熱の炎は燃え尽きていた。勉強の楽しさこそが、私を駆動していたエンジンだった。今や、そのエンジンが動かない。もう、何をすれば楽しいという気持ちが得られるのかすっかり分からなくなっていた。勉強も、学外活動も、家事も、ゲームで遊ぶことさえも、何も手につかない時間が増えていった。
夜になると、出口の見えない思考が頭の中を際限もなく巡った。私の寝付きは著しく悪くなった。それは集中力の低下をもたらし、勉強の効率を悪化させた。私は、思うように勉強を進められない自分自身を責めた。私が焦りを募らせるほどに理想と現実のギャップは開いていき、そのギャップに直面するたびに私の気分は重くなった(*3)。私は、自らの心臓部に根を張った呪縛に引きずられるようにして、絶望と憂鬱のスパイラルの中を落ちていった。(続く)

(*1)父は、大学二回生のときに法学部から理学部へと転学部している。そうまでして学びたいことがあったということである。
(*2)学ぶことは楽しい。だが、怠惰な私を動かすためには、それだけでは動機付けとして弱すぎる。学問の苦しさを乗り越えるためには、仕事という形で一定の強制力を自分に与えることが必要であると思われたのだ。
(*3)気分の重さを解消すべく、その正体を探ろうとして私は内省をするようになった。ref.「整理」

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