2019年9月26日木曜日

続・私の院試体験(6)

・2012年4月~2014年12月
思い返せば、私はもともと京大志望だった。父は、時々京都に住んでいた大学時代の思い出を語ってくれた。私は京都という土地に憧れの気持ちを抱いていた。高校1年生の8月には、私は同じクラスの友達と京大のオープンキャンパスに行き、京大への憧れを強めて帰ってきた。ただ、自分に京大に行けるだけの学力があるとは、そのときは全く思っていなかった。
私が入った高校の卒業生で、私が入学するまでに京大に行った人は確か1人しかいなかったはずだ。東大には0人である。そして、高校1年生の頃の私は、学年1位の成績というわけでもなかった。京大に行くのが現実的な未来だとは思えなかった。
転機は高1の冬に受けた駿台模試だった(*1)。ここで、私は自分の成績が全国でも相当高いレベルにあることを知った。模試の結果は、この調子で行けば京大だろうと東大だろうと私が志望しさえすれば大体合格するであろう、ということを告げていた。私は驚愕した。 同時に、私は志望校を決めることができなくなった。折角だから、東大に行っておいた方がいいのだろうか。しかし、京大の自由の学風にも憧れるしなあ......。
そうして時は過ぎ、私は志望校を曖昧にしたまま高3の冬を迎えた。12月、担任の先生と母を交えて進路について話し合う三者面談があった。そこで担任が放ったのが、「どこ受けても通るやろうから、(志望校を決められないのであれば)サイコロ振って決めたらええ」という言葉だった。私はその言葉に感銘を受けた。今まで自分の進路を真面目に考えていたけれども、考えても答えが出ないのなら真面目に考えなくてもいいか。私はそういう気分になった。

・2015年1月~2015年3月(2)
結局、私は何となく東大を受けた。受験勉強に関しては、特に何に苦労したということもなかった(*2)。合格発表の当日、私は部屋探しのために東京に来ていた。自分の受験番号があることを前提にした行動だった。自らの合格を知った瞬間の私の胸に喜びはなく、ただ安堵だけがあった。
私は、本当にこの選択で良かったのだろうかという不安を胸に抱きながら、渋谷(*3)の街に降り立った。慌ただしい喧騒に包まれながら、私はどこか長閑さのある京都の鴨川の風景に思いを馳せていた。

・2018年7月下旬
さて、物理学のバックグラウンドを活かして生命の研究をするに当たっては、ざっくり分けて2パターンの方向性が考えられた。
1つは、熱力学のように現象論的なモデルを構築することを目指す研究である。ただ、この方向の研究は、目標と現状の乖離が非常に大きいように感じられた。トップダウン的に理論からアプローチするのには大いにセンスが必要そうであったし、ボトムアップ的に実験からアプローチするにしても有効なモデルを構築するのには程遠いのではないかと思われた。発想としては面白いのだが、どうにも自分に務まる気がしなかった。
もう1つは、生命現象のうち解析に物理学の知見が活かせるものを切り出して、そのメカニズムを詳細に調べるような研究である。第4回で述べた渡り鳥の磁気コンパスの研究もこれに当たる。ただ、生命現象を切り出してその仕組みを詳細に調べたとしても、生命というシステム全体のことは何も分からないのではないかと感じられることが気がかりだった。
悩んだ末に、私は両方の間の子のようなアプローチを取ろうと考えた。それは、情報熱力学の観点から生体内の化学反応を理論的に考察することで、生物における情報処理システムの一般論に迫ろうという作戦であった。化学反応の理論をテーマにするというのは、Sセメスターで化学の研究室に配属されたという流れを汲んだものだった。こうして、私は京大と北大の2つの大学の大学院を受験することにした。
北大はともかく、京大を受けることにしたのはもちろん意図的なチョイスだった。私は京都に住むための口実を欲していた。大学院受験は、私にとってまたとない機会だったのだ。私は、京大の中で一番私の思想に近そうな研究室を探し出し、そこを第一志望として出願した。(続く)

(*1)これ以前にも、高校で強制受験だったベネッセの進研模試は受けてきた。だが、低難易度かつ採点ミスの多い進研模試では、私の学力をまともに測れていなかった。
(*2)これは、大学入学後のキャパオーバーの遠因になった。いわば、私は頑張り方を知らなかったのだ。
(*3)新幹線が停まるJR品川駅から東大駒場キャンパスに行くときの乗換駅。人が多く、うるさく、動線が悪くて迷いやすい。

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