2019年9月28日土曜日

続・私の院試体験(8)

・2018年12月下旬~2019年2月中旬
私はT君の言葉が引っかかっていた。すぐには受け入れがたい助言だったが、尤もといえば尤もな感じがした。問題は、私が自殺するのか、しないのかだった。
考えてみると、私は自殺を先送りにするばかりで、真面目に考えることを避けてきた。自殺するのであれば今死ねばいいし、自殺しないのならば自分が幸せになれるよう精一杯の努力をすればいい。それを中途半端にしているからデッドロック状態に陥ってしまっているのである。となれば、私は今すぐ自殺できるのだろうか。今ここで首をくくる、そんな選択が私に可能なのだろうか。
そんなことはできなかった。私は、その実、自殺を実行するには程遠いところにいた。死それ自体よりも、死に至るまでの痛みのことが恐ろしかった。私は、自殺はおろか、もっと致死性の低い自傷行為すら恐れるような人間なのだ。私には希死念慮こそあれど、自殺願望などどこにもなかった。であれば、私にできることは、余程のことがない限り自分はこれからも生き続けなければならないという事実を受容することだけだった。かくして、私は自らの幸せを実現するために努めるよう方針を転換することにした。
そして、ちょうどこの頃、私は「彼女」が私と同様にこの春から関西地方に引っ越すことを知った。これはチャンスだ。私は、卒研が仕上がって落ち着いたら「彼女」へのアプローチを始めようと心に決めた。

ところで、その卒研は2月初頭の発表会に向けてちょうど最大の山場を迎えていた。教科書はキリのいいところまで読み進められたため、導出できた式を使って実際に計算をしてみようという話になった。これこれこんなモデル(*1)に対して理論を適用してみたいです、と私が言ったところ、K先生はそれで行こうとGOサインを出してくれた。私は実際に計算するためのプログラムを書き始めた。
プログラミング作業は発表会の前日ギリギリにまで及んでしまったが、どうにかこうにか計算を終えてデータを出力することができた。無事に発表を終え、報告書も提出し、私の卒研は一応の完成を見た。「続・私の院試体験(5)」の冒頭で述べた、3つの重要事項はこれにてコンプリートである。
卒業研究発表会では、統合自然科学科ならではのバラエティ豊かでユニークな話を色々聞くことができて楽しかった。中でも、A研の学生の発表は学術的な面で特に印象に残ったものの一つ(*2)だった。シンプルな設定から非自明な結果が出てくるシミュレーションの妙味に感服するとともに、「へー、A研ではこういう方向の研究もありなのか。これは自分の興味に割と近いかもしれない(*3)な」と思ったものだった。

・2019年2月下旬~2019年3月上旬
引っ越し準備の傍、積極的に友達と食事に行ったり、宿に泊まってボードゲームで遊んだりして引き続き東京での思い出作りに勤しんだ。特に、おくと行った火力発電所は最高だった(*4)。首都圏での遊びを締めくくるにふさわしい集大成であった。
3月の上旬に京都に引っ越した。しばらくの間は生活基盤を整えることに専念していた(*5)。

・2019年3月中旬~2019年3月下旬(1)
時は来た。私は「彼女」に連絡を取り、彼女を街へと呼び出した。一緒にランチを食べ、街を少し歩いて、喫茶店でコーヒーを飲んだ。
東京で思い出作りをした経験がここで活きた。友達と火力発電所に行ってきた、という話をすると、彼女が強く食いついてきた。
「ああー!楽しそう、私も火力発電所行ってみたい。都会ってそういう楽しみ方があったんだ。私の周りにはそういう友達いなかったから、思いつかなかった。もっと早く知りたかったな」
「じゃあ、今度俺と行かへん?関西圏やと......例えば、造幣局とかどうかな」
「造幣局!行ってみたい!」
「よし。来週、春休みのうちに行こう。帰ったら工場の予約調べてみるわ」
......手応えありだ。これ以上望むべくもないほど上手く事が運んだ。いける。この調子なら、きっといける。最早、あとは俺が告白するのを待っているだけと言っても過言ではないのではないか(*6)。私はそんなことを考えながら家路に就いた。しかし、まさか火力発電所に食いつくとは、流石は「彼女」。やっぱり彼女は最高だな......。家に着いた私は、自らの彼女に対する恋愛感情がこれまで以上に大きくなっていることに気が付いた。そう、私は、今や否定の余地もないくらい、爆発的に、どうしようもなく、抑えがたいほどに、彼女のことを好きになっていたのだった。(続く)

(*1)このモデルは、A先生の授業の中で扱われたものだった。A先生は粗い近似を用いて計算していたが、勉強した理論を使えばもっと精密に評価できるはずだと思い、それを実際にやってみることにした。
(*2)学術的な面で印象に残った発表もあれば、学問とは関係のない点で印象に残った発表もあった。
(*3)その学生は、高密度な2成分流体の相分離及びガラス転移をテーマに研究していた。私は、A研にはもっと平衡状態に近い静的な系の理論を研究しているイメージを持っていたので、その学生が本質的に非平衡でダイナミックな系の研究をしていたことが少々意外に感じられた。非平衡現象は私が関心を抱いていたテーマの一つだった。また、相分離が様々な生命現象に関わっている(白木, 2019)だとか、細胞内の分子混雑が生命現象において重要な意味を持っている(柳澤&藤原, 2015)だとか、代謝に関連して細胞質のガラス転移が起こっている(Parry, Surovtsev, Cabeen, O’Hern, Dufresne & Jacobs-Wagner, 2014)だとか、生命科学の分野にも色々と関連する面白い話がある。
(*4)ref.「横浜: 磯子火力発電所ほか」
(*5)ref.「3/5 - 3/12: 転居」
(*6)ここまで思った背景には、火力発電所の件の他にも、「彼女」が恋人いないアピールをしてきたという一件があった。ref.「初恋(2)」

[参考文献]
  • 白木賢太郎, (2019). 相分離生物学. 東京化学同人, 東京 .
  • 柳澤実穂 & 藤原慶, (2015). 総説 高分子混雑効果を細胞モデル系から読み解く. 生物物理, 55 (5),pp. 246-249.
  • Parry, B. R., Surovtsev, I. V., Cabeen, M. T., O’Hern, C. S., Dufresne, E. R. & Jacobs-Wagner, C., (2014). The Bacterial Cytoplasm Has Glass-like Properties and Is Fluidized by Metabolic Activity. Cell, 156 (1–2), pp. 183–194. https://doi.org/10.1016/J.CELL.2013.11.028

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