2019年9月29日日曜日

続・私の院試体験(9)

・2019年3月中旬~2019年3月下旬(2)
造幣局の工場見学予約サイトにアクセスしてみたところ、3月の見学枠は既に予約で埋まっていた。そこで私は食品工場の見学を提案したのだが、彼女が足を痛めてしまったということで、春休みには結局どこにも行けなかった。

・2019年4月上旬
私は東京大学を卒業し、京都大学の大学院に入学した。私は早速研究室に行って、先輩から指導を受けながらPCのセットアップなどを進めていった。
私の研究対象は、あるイオンポンプ(*1)タンパク質だった。私は、
  1. まず、QM/MM法を用いて、このイオンポンプの機構を化学的視点で解明する。
  2. 次に、そのデータを用いて、イオンポンプの動作原理を情報熱力学的観点から考察する(*2)。
という流れで研究を進めていこうと考えていた。私は張り切っていた。私は、博士課程に進学し、そして大学教員を目指していく前提でいた。そして、研究者としてアカデミアの世界で生き残るためにも、学振DC(*3)に採用されたいと思っていた。DC1に応募するのは修士2年の始めであるから、修士1年の間に申請書に書けるような業績を出すことが必要である。私は早く成果を出したかった。
最初にすることは、先行研究の論文を読むこと、そして使用する量子化学計算ソフトの使い方を学ぶことである。私は論文とソフトのマニュアルを読み進めていった。
研究の裏で、「彼女」ともコンタクトを取っていた。私は、春休みにどこにも行けなかった代わりに、ゴールデンウィークにどこかに行こうと提案した。そして、彼女もそれを承諾した。上手くデートの約束を取り付けることができて、私はほっと一安心した。

・2019年4月中旬(1)
「彼女」とのやり取りは、どこに行こうかという話題へと移っていた。休日も見学者を受け入れている工場は少なく、私は行き先選びに困っていた。どこか行きたいところがあるかと聞いてみたところ、彼女はダムに行きたいと答えた。これを受けて、次は神戸布引ハーブ園に行くことに決めた。ここは、近くにダムがあるのである。
行き先を決めた私の頭には、告白という選択肢がちらつき始めた。ダムなら、景色も良く、静かで人も少ないだろう。むしろ、ここ以上に告白に適した場所、適した機会があるだろうか。それに、ゴールデンウィークが終わってしまえば、学部を卒業して忙しくなった彼女を誘い出す口実はほとんどなくなる。それならば、ゴールデンウィークのうちに告白してしまって、恋人という地位を早々に得てしまうのが得策なのではないだろうか。今まで恋人がいたことがなく、自分から告白したことも誰かに告白されたこともないということは、彼女は誰かが告白してくれるのを待ち続けているということだろう。今告白しても、勝算は十二分にあるはずだ。私はそんなことを考えていた。

さて、授業も2週目に入り、新学期が本格的に始動した。そして、研究室のゼミも開始された。ゼミには、研究室のメンバーが持ち回りで研究の発表を行う「全体ゼミ」と、量子化学に関する課題を解いて提出する「B4M1(*4)ゼミ」の2つがあった。しかし、困ったことに、どちらも訳がわからなかった。話を聞き流していればそれで済む全体ゼミはまだしも、B4M1ゼミは課題が解けないと話にならない。先生の説明はよくわからないし、他のメンバーとはあまり親しくなれていなくてどう接して良いかわからなかったし、Slack(*5)で尋ねてみたところで誰も答えてくれないこともしばしばだった。私は何時間もゼミ室で一人居残ってやっとのことで終わらせたが、この状況にはほとほと参って疲れてしまった。
私は、物理中心の教育を受けてきたため、化学の知識が足りなかった。ゼミにせよ、授業にせよ、そのせいで分からないことも多かった。私は焦っていた。課題を前にさまよっている時間が、何も理解できないままにただ座っている時間が、前に進めずに自分の無能さを恨んでいる時間が、苦痛に感じられてならなかった。言っていることが理解できない。理解できないから、つまらない。自分に必要なのはこういった話ではないのに。ああ、その時間があれば、論文をどれだけ読めただろうか、マニュアルをどこまで進められただろうか......。
私は、早くただ論文やマニュアルを読んでいるだけの段階を終えて、計算をする段階に移りたかった。だが、自分が立てた目標は、追えば追うほど蜃気楼のように遠ざかっていった。たかだか院試をパスしたというだけで、研究を始めるにあたっての基礎的な能力が何か保証されるわけではない。その当たり前の事実に、私はこのときまで全く気付いていなかったのだ。(続く)

(*1)生体膜を通して物質を運ぶタンパク質(膜輸送体)のうち、物質を低濃度側から高濃度側へ運ぶ(能動輸送)役割を担っているもののこと。輸送の際にエネルギーを消費する。
(*2)私の問題意識について、この脚注でより詳細に説明しておこう。私が研究対象としようとしていたタンパク質は、KR2と呼ばれる光受容性輸送体であった。KR2の立体構造は既に知られている(Kato et al., 2015)。さて、このKR2の動作原理に関しては、図1に示すような「パナマ運河モデル」が提唱されている(Kandori, Inoue & Tsunoda, 2018)。これは、状態3から状態4に移るときの、船を「持ち上げる」操作がタンパク質の形の変化に対応する、とするものである。
図1 (A)「運河」の様子。(B)対応するイオンポンプの様子。二つの門が開閉することにより標的イオンが輸送される。このモデルでは、状態3から状態4に遷移する際にエネルギーを利用するとされる。
図の出典: Kandori, Inoue & Tsunoda (2018). p. 10647
ただ、私はこれに納得がいかなかった。図1-Bを見る限り、状態3から4の遷移で標的イオンが仕事をされているようには思えない。これはむしろ、3Aセメスターの「数理生物学」の授業(ref. 「振り返り: 3Aセメスターの授業」)で習った「マクスウェルの悪魔」を実現するものの1つ(例えば、Toyabe, Sagawa, Ueda, Muneyuki, & Sano (2010)は実際にそのような系を組み上げている)としてみるべきだろう。そう考えるならば、エネルギーを要するのは状態7から8の、系を最初の状態に戻す過程になるはずである(Sagawa & Ueda, 2009)。私は、実験よりも時間分解能の高いシミュレーションの結果を使うことで、前述の予想を検証し、イオンポンプにおける輸送に関して粒子位置の"情報"が果たす役割を知ることができるのではないかと考えた。生物や化学の人にはあまり知られていない情報熱力学の理論を使うことで、一定のオリジナリティを発揮しようという目論見だった。 以上が「情報熱力学的観点からの考察」 という言葉の意味するところである。
(*3)博士課程の学生を対象にした、「日本学術振興会特別研究員」の制度のこと。これに採用されると、日本学術振興会から給与や研究費を受け取ることができる。採用された人の多くが常勤研究職に就いていることから、研究者への登竜門ともされる。ref.「特別研究員-DCの就職状況調査結果について」(日本学術振興会)
(*4)B4は学部4年生、M1は修士課程1年生の意味。
(*5)チャットができるコミュニケーションツール。おおよそ、研究室メンバー用の掲示板のようなものだと思ってもらえればいい。

[参考文献]
  • Kato, H. E., Inoue, K., Abe-Yoshizumi, R., Kato, Y., Ono, H., Konno, M., … Nureki, O. (2015). Structural basis for Na+ transport mechanism by a light-driven Na+ pump. Nature, 521, pp. 48-53. https://doi.org/10.1038/nature14322.
  • Kandori, H., Inoue, K., & Tsunoda, S. P. (2018). Light-Driven Sodium-Pumping Rhodopsin : A New Concept of Active Transport. Chemical Reviews, 118, pp. 10646–10658. review-article. https://doi.org/10.1021/acs.chemrev.7b00548
  • Toyabe, S., Sagawa, T., Ueda, M., Muneyuki, E., & Sano, M. (2010). Experimental demonstration of information-to-energy conversion and validation of the generalized Jarzynski equality. Nature Physics, (12), pp. 988–992. https://doi.org/10.1038/nphys1821
  • Sagawa, T., & Ueda, M. (2009). Minimal Energy Cost for Thermodynamic Information Processing: Measurement and Information Erasure. Physical Review Letters, 102 (25), 250602. https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.102.250602

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