2019年9月21日土曜日

続・私の院試体験(2)

・2016年5月~2016年8月
様々な学科を検討した結果、後期課程は教養学部統合自然科学科に進学することにした(*1)。生物学と物理学の境界分野に関心を抱いていた私にとって、自分で自由にカリキュラムを設計できる統合自然科学科はうってつけの選択肢のように思われたのだ。

・2016年9月~2016年12月(1)
私は無事に統合自然科学科に内定し、専門科目の勉強を始めた。私は物理学の基礎の上に立って生物を研究しようと考えていたため、2年生のうちは物理学と数学を中心とした時間割を組むことにした。
進学選択に伴い、前期教養のクラスの友達とは離れ離れになった。代わりに顔を合わせる機会が増えたのが同じ統合自然科学科に内定した同級生であったが、彼ら彼女らとはなかなか仲良くなれなかった。最初の懇親会で自己紹介の時間があった(*2)が、人を覚えるのが苦手な私はすぐに誰が誰だか分からなくなってしまった。教室はいつも静かで、休み時間にも会話はほとんど発生しなかった。私は、周りの学生たちにどう声をかけてよいものか分からなかった。そうして、誰とも何も話すことなく過ごす日々が増えた。私は孤独感を覚えた。
その頃、中学の頃からのある友人に恋人ができた。聞けば、彼は学外活動の中でその恋人と出会ったのだという。私の目には、隣の芝生が青く映った。私と違って、彼は勉強だけでなくバイトやサークル活動も器用にこなして彩り豊かな大学生活を送っているように見受けられた。私は彼を羨み、自分の寂しい生活と彼の華やかそうな生活を比較して落ち込んだ。今のままでは、恋人どころか友人を作ることさえままならない。既にサークル(*3)に入ってはいるが、もっと他に色々学外活動をやってみたい。私はそう考えた。
しかし、その思いを実際に行動に移すことはできなかった。自らの知的好奇心を満たすこと、それが私の人生における第一の目的だったからだ。私は勉強に追われていた。
いや、違う。私は勉強に自分自身を追わせていた。私は、研究者になるという夢に"呪縛"されていたのだった。

・子供時代
私は、父から強い影響を受けて育ってきた。父は知を愛していた。本をよく読み、面白かった本を私と共有してくれた(*4)。私が何か疑問を口にすれば、広い知識を活かして答えてくれた。勉強の面倒もよく見てくれた。私が何かやりたい実験があると言えば、一緒に準備してくれた。私に学ぶことの面白さを教えてくれたのが父だった。私は父を尊敬していた。私が研究者になりたいと思い始めたのは、他ならぬ父の影響だった。
ところが、かつては才気溢れる学生だったのであろう父も、今や好きでもない仕事に汲々とするサラリーマンに過ぎなかった。父は、小学生の頃の私が「パパが今(*5)しとるのはどういう仕事なん?」と無邪気に尋ねるその度に、自分がやっているのは「しょーもない仕事」だと言って自嘲した。父が仕事にやりがいを感じているようには到底見えなかった。ついでに言えば、父と母の仲もあまり良くなかった。私は、仕事と家庭両面に関する父の嘆きに接しながら育ってきた。
私は、何でも教えてくれる優秀な父を尊敬していたが、その一方で、”優秀”な父に対し尊敬だけではない複雑な感情を抱いていた。自分が父に似ていること、自分が疑いようもない父の息子であることを、私はよく自覚していた。父の姿は「最もありえそうな未来」における私の姿であると同時に、「どうしても避けたい未来」における私の姿でもあった。 父は私の模範ではなかった。私は父のようになりたくなかった。
私は、父が「しょーもない仕事」をする中で出会った、後に折り合いが悪くなる母との間に生まれた子供だった。父の人生を否定することは、すなわち自己の存在を否定することだった。私は、父の嘆きにどう接してよいか分からなかった。こうして私は自己存在に関するわだかまり(*6)を抱き、そしてそれを抱えたまま成長していった。(続く)

(*1)ref.「私の進学選択(3)」
(*2)当然、私も自己紹介した。後に友人から聞いたところによると、その内容が変だった(「20年間人間という生き物をやってきました」「好きなことは、高い筆圧で文字を書くことです」など)ために私はしばらく"ヤバい奴"だと思われていたらしい。自己紹介がもっとまともだったら、もっと早く同級生たちと打ち解けられていたのだろうか......。
(*3)当時、私は東京大学キムワイプ卓球会の会長を務めていた。
(*4)その中でも、当時小学五年生だった私に「生命の謎」に関心を抱かせ、私の興味の方向性を決定づけた本が「生物と無生物のあいだ」である。ref.「私のオールタイムベスト10」
(*5)父は、しばしば仕事を家に持ち帰り、休日も仕事に忙殺されていた。
(*6)ref.「初恋(1)」

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