2019年10月23日水曜日

おすすめTwitterアカウント5選

おすすめのTwitterアカウントを(勝手に)紹介しよう。特に解説は加えないので、Tweetから全てを感じ取って欲しい。

1)ALISON (@ALISON_airlines)
死ぬ事以外はかすり傷って言ってる人の前頭葉切除するやつやりたい

2)川崎 (@_rotaren_)
ちょっぴりエッチな女の子は嫌いですか?❤︎
                   ↑
       嫌いだつってんだろ
次この辺で見かけたら潰すぞ?

3)ドラゴンの季節 (@c_mfd)
アカデミックハラスメントの例
・指導教員が生きることを強要する
・指導教員が私生活で性欲を持つ
・指導教員がある一定の体積を持って存在している
・指導教員がやけにモチモチしている
・指導教員がセミナー中に破裂する
・指導教員が体積を持っていない
・指導教員が存在しない

4)自閉症連続体 (@uonomi_keiichi)
犬の鳴き声が立体的なので部屋がどんどん狭くなる

5)脳の液体 (@Sleeporgan)
三角形の穴からでた真っ白なイルカ、燃やしたらピクピクして、苦しそうにもがいていて、ざまあみろと思いました。気づいたら、ぼくがいるかでした。

2019年10月18日金曜日

理想のディストピア

私は比較的リベラル寄りの思想を持っていると自認している。すなわち、個人の自由を重視し、それに対する社会的抑圧に反発する。また、全ての人に平等に権利が与えられるべきであり、多様性は尊重されるべきだと考える。
この考えを推し進めて行くと、その先にはどのような社会が立ち現れるのだろうか。皆が自由で、平等に暮らせる楽園だろうか。いや、そこは決して楽園ではない。全体は部分の総和ではない。個々に幸福を追求する個人が集積した社会は、決して全体としての幸福を実現できないだろう。

それを最も分かりやすい形で我々の前に示してくれたものの1つが、自由恋愛市場である。資本主義経済を見ればたやすく分かるように、自由化には「富める者をますます富ませ、貧しき者をますます貧しく」し、格差を拡大させる効果がある。この効果を抑えるべく、所得再分配という制度が考案された。政府が徴税と社会保障を通して富裕層から貧困層へと富を移し替える仕組みのことだ。しかしながら、自由恋愛市場においてはそのような操作は許されない。お金と違って、生身の人間には感情があり、意思があり、そして人権がある。結果として、恋愛市場においては、その自由化の影響が露骨に現れる形で競争の激化と格差拡大が発生し、敗者の増加がもたらされることになる。こうしたモテない敗者たちは、「自己責任」という言葉で片付けられてしまっている。
付け加えるならば、恋愛が本質的に「政治的に正しくない」営みであることも事態を複雑化していると言える。自分の行動がセクハラになるリスクを完全に避けながら恋愛を行うことは、ほとんど不可能であると言ってよい。ある人が他者のセクシュアリティを尊重しようとすればするほど、その人は恋愛ごとから遠ざからねばならない。今やお見合いをセッティングすることも憚られるようになった。その結果、男女が結婚を希望しながらもマッチングしないということが頻発している(*1)。このように、個々人の自由の尊重が全体としての最適化をもたらさないということが往々にして起こるのである。

個人が自由になればなるほど、個々人の間での利害の対立は激しくなる。個人が解放されればされるほど、文化的、宗教的、政治的な摩擦が起きる。トロッコ問題的な状況において、全体のために個人を犠牲にすることが許されないのならば、全体を犠牲にすることを選ぶしかない。そして、たとえ全体を犠牲にしてでも個人の権利を尊重せよ、というのが私の思想である。それが平等原則を貫くということだからだ。
この考えを推し進めれば推し進めるほど、社会は「自由なはずなのに幸福でない個人」の集合体へと変質していく。そこで私が提案するソリューションが、麻薬と安楽死だ。この世界は、もともと皆が幸福になれるようにはできていない。これはもう諦めるしかない。だが、この世界には麻薬というものがある。現実を見るな。人間をやめろ。自分の脳をハックしろ。そこにユートピアは顕現する。通常の意味の幸福が得られないのなら、麻薬で"幸福"感を得てしまえばよいのだ(*2)。
しかし、麻薬によって得られる幸福は刹那的であり、いつまでも何度でも得られる類のものではない。夢から醒めれば、あとは不幸へまっしぐらだ。だから、その限界が来たら死ぬしかない。死ねばもうそれ以上は不幸にならないし、薬物乱用の反動に苦しめられることもない。どうせ幸福になれないのなら、麻薬でパーッと一時的にでも"幸福"感を味わって、それで満足して死んでしまえばいいのだ。

個人に限りない自由が与えられ、社会全体では激しい競争と対立が起き、そこに敗れた不幸な者たちは麻薬をキメた上で死んでいく。人間が死ねば死ぬほどに社会の機能は破綻して、不幸な人が増えていく。社会を構成する者は加速度的に減ってゆき、文明が維持できなくなって遂には人類が絶滅する。生という苦しみに支配される者はいなくなり、世界平和が実現される。
これが私が見据える「理想のディストピア」の姿である。

(*1)ref.「令和元年版 少子化社会対策白書」第1-1-15図.
(*2)ref.「麻薬の話」

2019年10月13日日曜日

麻薬の話

さて、リクエスト通り麻薬の話でもしようか。

一体なぜ、私はこうなってしまったのだろうか。どうして私はこんなに麻薬に傾倒しているのだろうか。昔はこんなではなかったはずだ。では、一体どこからこの麻薬好きは始まったのか。

......絶望からだ。

「続・私の院試体験(3)」で述べたように、私の底には絶望が澱となって積み重なっていた。私の憂鬱は、自らの生きる目的に起因するものだった。"呪縛"は、自分のアイデンティティに強固に根ざして剥がれなかった。苦しい。苦しい。苦しい。だが、自分が自分である以上、この苦しみからは逃れられない。勉強も、遊びも、食事も、自分に満足を与えないのなら。そして恋愛をすることも許されない(*1)のなら。何なら私を幸せにしてくれるのだろう。私は自分をやめたかった。
そのための手段として思い付いたのが麻薬だった。麻薬は、使えば強制的に幸せになれるのだという。麻薬なら、自分に喜びを与えてくれるのではないだろうか。私は目の前の苦しみから逃れたかった。麻薬によって多幸感に包まれた後、急性薬物中毒で意識を朦朧とさせながら死ぬ。理想の人生だと思った。
私は、そもそも自分なんて初めから生まれなければよかったのにと思っていた。だから、麻薬は、ある意味私にとっての希望だった。死は救い。死ねばもう頑張らなくていい。麻薬は、自分を多幸感で包んで救いへと優しく導いてくれる。私は疲れ切っていた。欲しい。麻薬が欲しい。麻薬を使って自殺したい。麻薬への渇望の餌となったのは、私の希死念慮だった。

私は諦念に支配されていた。それは、自分の人生は何をどうやっても良くならないという意味だけでなく、この社会は何をどうやっても良くならないという意味においてもだった。私は、平和を心から望んでいた。しかし、成長して大人になればなるほどに気付いたのは、この世界がいかにユートピアから程遠いかということだった。若かりし頃の私には、社会を良くしたいという気概がまだ幾分かはあった。こうすればもっと世界は平和になるのではないか。人類がこうなればもっとみんなが幸せに暮らせるのではないか。そういう理想を、自分なりに描いていた。
だが、己の憂鬱が深まるにつれて、そういったことが全てどうでもよくなってきた。自分が何をしようと無駄だ。自分が無力だとか、人類が愚かだとか、そういう次元の問題ではない。そもそも、世界がみんなが幸せになれるようにできていない。この世界は物理法則からしてクソなのだ。
人間は、根本的に苦しみと紐付けられている。人間は、その設計者の策謀によって無理矢理生かされているだけの、遺伝情報の捨て駒に過ぎない。つまり、我々が生まれてしまった時点で失敗なのだ。社会の存続、人類の存続なんてクソ喰らえだ。こんなゴミが続いたところで何にもならない、意味がない。苦しみを宿命づけられた可哀想な存在者どもをこれ以上増やす前に、とっとと絶滅してしまえ。......ただし、誰も苦しまないよう、平和的に。
私は、強力な麻薬が蔓延した世界を想像した。みんな、争いも、食事も、生殖も、何もかもがどうでもよくなってしまって、ひたすら退廃的に麻薬をキメては一人、一人と幸せそうに死んでいく。なんと理想的な世界だろうか。こんなカスみたいな世界は捨ててしまって、みんなでとっととあの世に行けばいい。そう、今の幸福だけが全て。幸せなんて刹那でいい、偽物でいい、破綻する前に死んでしまえばいいのだから......。

こうして私は段々麻薬について考えることにハマっていった。私は、少しでも明るく生きるために、自分の絶望を笑い飛ばそうと考えた。そして、その絶望に抗うための、希望の象徴こそが麻薬だった。だから私は麻薬を題材にした漫画を作り、自分のペシミスティックな思想をコミカルに描いた。これが思いの外ウケがよかったため、どんどんエスカレートして今に至っているというわけである。

(*1)ref.「続・私の院試体験(5)」

2019年10月3日木曜日

続・私の院試体験(13)

・2019年7月下旬
7月20日、筆記試験当日である。院試も3回目ともなると慣れたものだ。昼休みになって受験生たちがぞろぞろと教室を出て行く中、「試験会場で髭を剃っていたら白い目で見られた」と言って後でネタにしようと思い、一人無表情のままブイイイイインと電動カミソリで髭を剃った。だが、私の目論見に反して誰も目を合わせてはくれなかった。悲しかった。
肝心の試験であるが、熱力学が難しかった以外は特に苦労しなかった。そして、手応え通りにちゃんと一次試験はパスしていた。後は面接だけである。私は、もう受かったも同然だと思い、借りている部屋の管理会社に解約通知書を送り付けた。

・2019年8月上旬
8月1日、面接の日だ。朝5時に起きて新幹線に乗り、新幹線の中で仮眠をとった。面接には間に合った。事前に志望動機も取り組む研究テーマもA先生と十分に話し合っていたので、ほとんど形式だけの面接だった。
そうして無事A研に合格した。

・2019年8月中旬~2019年8月下旬
8月の中旬は、喘息の発作が出て思うように活動できなかった。部屋探しは9月に入ってから行うことにした。
8月末、「院試お疲れ様会をしよう」と言って、院試を受けたばかりの高校の後輩を京都まで呼び付けた(*1)。私は言った。
「院試お疲れ様。どう、手応えのほどは?」
「まあ、合格でしょう」
「さすが優秀やね。ところで、院試といえば、俺もこの前院試を受けてきたんよ。これを見てくれ」
私は東大の合格通知書を撮った写真を差し出した。
「え、京大辞めるんですか?」
「そう。やから君が京都の俺の家に来るのはこれで最後」
「!?」
「おー、いい反応やな。普段の言動が悪いんか、これ言ってもみんなあんまり驚いてくれんことが多くて(*2)。驚いてくれてよかった。サプライズ成功やな!」
「そうですね。普段の言動、悪いですよ」

・2019年9月
東京に出て、住む部屋を決めた。そこからは慌ただしい日々が過ぎた。引っ越し業者を頼み、賃貸の契約書類を書き、部屋の片付けをして、京都で住んでいた部屋を退居した。
9月20日、私は東京大学総合文化研究科に入学した。私は、京大を退学した旨をTwitterに投稿した後、時間をあけてから東京大学に入学した旨を投稿した(*3)。なかなか反響があったので良かった。
入学と同日に入居した。入学手続きと引っ越しの諸々が重なって大変だった。

・2019年10月3日
今、私はパソコンに向かって文章をタイプしている。現在の居場所は東京だ。私は再び東大生になった。まだ新学期は始まったばかりで今後どうなるかは分からないが、早速新しい友達もできたし、京大時代よりは楽しめそうな予感がする。前は成果を出すことを重視するあまり大きく空回りしてしまったが、今度は物理学の面白さを味わうことを第一の目標として、自分が心から研究活動を楽しめるよう精一杯頑張っていこうと思う。
半年間京都にいたのは、お金という意味では無駄だったかもしれない。私が浪費したのはつまるところ親のお金であり、両親には多大な迷惑と心配をかけたと思う。ただ、時間という意味では決して無駄ではなかったはずだ。A研に行こうと思えたのは、卒研で液体論をやっていたからという側面が大きい。そして、院で京大の化学専攻に行くことになっていなければ、そもそも卒研で液体論をやろうという話にはならなかっただろう。私がA研に行くためには、こういう回り道のプロセスを踏むことが必要であったのだ。
また、院で京大に行ったことは、恋愛においても重要な意味を持っていた。まず、東京を楽しもうと思って火力発電所に行ったことが、「彼女」をデートに誘うきっかけ、ひいては彼女に告白するためのきっかけになった。更に、京都に住んだことによって、彼女と同じ関西圏にいることができた。これも彼女にアプローチする上で有利であった。結局、院で京大に行っていなければ、私は告白によって自分の気持ちに区切りをつけることもできていなかっただろう。振られてしまったわけであるが、それも価値ある経験だった。副産物として、「初恋」という名作をこの世に生み出すこともできた。失恋の一件に関しては、反省すべきところは反省し、今後の自分の糧としていきたいところだ。
今回、東大を受けて合格したことにより、憂鬱と倦怠の泥沼からどうにか抜け出すことができた。しかし、これでめでたしめでたしかというとそうではない。私の中には、"呪縛"も、希死念慮も、解消しきれないまま残っている。ついでに言えば、恋人はいないし全くモテない。研究者としての業績もない。最近どうも便秘気味だ。加えて、音痴で運動音痴で方向音痴だ。本当に課題山積である。
とはいえ、自分の人生をより良いものにしていくべく、私はこれからも全力を尽くすつもりである。応援していただければ幸いだ。

以上が私の院試の顛末である。(「続・私の院試体験」終わり)

(*1)ref.「タチが悪い」
(*2)例えば、おくは全然驚いてくれなかった。
(*3)ref.「退学しました」 「4コマ漫画です。」

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2019年10月2日水曜日

続・私の院試体験(12)

・2019年5月6日~2019年5月15日
とりあえず、予定通り京都に戻ることにして電車に乗った。だが、次第に気分が悪くなってきたため、中書島駅(*1)で降りてトイレに行った。洗面台に向かい、身を屈める。胃が収縮し、胃液が食道を逆流する。私は、ついに嘔吐した。もう限界だと思った。私は、失恋の打撃がいかに大きなものであったかを悟った。私は止めを刺されたのだ。
私は、A先生にメールを送り、京大を退学してA研に行こうか悩んでいるという旨を伝えた。ひとまず、5月16日に研究室とゼミの様子を見せてもらえることになった。加えて、もらっていた診断書をスキャンし、京大の方の研究室の先生にメールで送った。私は、療養のための半年間の休みをもらった。私は大学に行くのをやめた。
それからは、家でひたすら「初恋」を執筆した。文章を書いていくに従って心境は次第に前向きになっていき、「初恋」は最初に考えていたよりもかなりポジティブな形で締めくくられた。出来上がった文章を読んで、私は達成感に包まれた。自分を絞り出すように書いた渾身の一作だった。これは傑作だ。振られた結果としてこんなに良い文章が書けたのなら、そんなに悪い体験でもなかったかもしれないな。私はそう感じられるようになった。

・2019年5月16日~2019年5月31日
私は東京に行き、A研のゼミに参加した。面白かった。やはり、理論化学よりも物理の方が性に合っているように思われた。A先生にも進路の相談に乗ってもらって、入学してからA研で取り組む研究テーマについて話し合った。また、A先生は総合文化研究科には秋入学の制度があるということも教えてくれた。
その後は、大学時代の友達に会って店の中で話し込んだり、一緒に五月祭(*2)に行ったりした。友達の何人かは「初恋」の記事に言及して、私を励ましてくれた。嬉しかった。
この間、私の調子は乱高下していた。A先生と議論したり、友達と話したりするのは楽しかった一方で、一人になると孤独感に苛まれ、吐き気に襲われることもしばしばだった。友達の前では努めて調子の悪いところを見せないようにしていたが、唯一僕を泊めてくれていたH君には吐こうとする声を聞かれてしまい、大きな心配をかけてしまった。
20日の朝、私は夜行バスで京都の街へと戻ってきた。それからは、家に引きこもって特に何もしない日々が続いた。

・2019年6月上旬~2019年6月中旬
私は、早く「彼女」の友達という地位に復帰したかった(*3)。6月1日、総合文化研究科の院試の出願に使うべく、大阪にTOEFL iBTを受けに来ていた。大阪からの帰り道、一月ほど経ったからそろそろ良いだろうとの判断のもと、私は彼女にメッセージを送った。そしてその結果、私は彼女に絶縁された(*4)。
彼女と音信不通になったことは大きなショックだった。恋愛感情も抱いていたとはいえ、その基盤にあったのは彼女に対する友情だった。彼女は、異性の中では一番親しい友達だった。それなのに、もう私は彼女の友達でない。喪失感が大きかった。大切な友達だと思っていたのは私だけで、彼女にとって私は簡単に切り捨てられるどうでも良い存在だったのかもしれない。いや、多分向こうにとっても私は異性では一番の友達だったはずだ。だったらなぜ、一体どうしてこんなことに......。執筆と休養によってポジティブになりかけていた心境は、再びネガティブの沼へと逆戻りした。
ただ、これによって総合文化研究科に出願するための決心はついた。こうなってしまえば、もうどう抗おうとも彼女の恋人になれないことは明白だった。彼女とは物理的にも距離を置いた方がいいのかもしれない。私は院試の願書を書き始めた。A研に落ちたら、今の研究室に残ればいい。私はA研単願にした。
しばらくすると、TOEFL iBTの結果が届いた。私は院試に出願した。

・2019年6月下旬~2019年7月中旬
6月中旬までは、塞ぎ込んでほとんど家に引きこもっていた(*5)。
6月24日、友人「おく」と造幣局を見学した。造幣局自体はさほど面白いものでもなかったが、友達と会ったことで多少なりとも元気が出た。翌日から、私は銭湯に行ったり植物園に行ったりして京都で色々遊ぶようになった。
そんなことをしているうちに、気付けば院試の筆記試験は目前に迫っていた。とりあえず過去問でも解くかと思い、時間を計らずに過去問を1年分解いた。えっちらおっちら解いていると、いつの間にやら院試の前日になっていた。結局、過去問1年分しかまともに勉強できなかった。
私は、前泊させてもらえるよう頼んでいた友達の家に行った。夕食としてスーパーで買ったプチトマトと木綿豆腐とバナナを食べ、軽くシャワーを浴びて眠りに就いた。(続く)

(*1)京阪本線の駅。私は、京阪線で京都大学の最寄駅である出町柳駅へと向かっていた。
(*2)第4回キムワイプ卓球研究会に参加するため、私はA先生に会った後も数日間東京に留まり続けていた。
(*3)私は、彼女にとって何でも相談できる相手 ーー彼女の親友ーー になりたかった。ref.「縦糸」
(*4)ref.「決意」
(*5)ref.「9/9: 銀行」

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2019年10月1日火曜日

続・私の院試体験(11)

関連記事: 「初恋(3)」

・2019年4月26日(2)
私は、睡眠導入剤に加えて抗鬱薬を処方された。ゴールデンウィークの間は研究のことを忘れてゆっくり休みなさいとのことだった。それでも治らなかったら使いなさい、ということで一緒に診断書も出してもらった。

・2019年4月27日~2019年5月3日
私は薬を持って実家に帰った。処方された薬を飲んでいると、口の渇きや吐き気などの症状は少しずつ治まっていった。食欲も増えた。そして、恋愛感情も次第に自分の手元に戻ってきた。
この一連の出来事を受けて、私は告白を急がなければならないと考えた。今でこそ恋愛感情があるものの、またいつ消えてしまうか分からない。告白をするならば、自分に恋愛感情がある今しかない。せっかく芽生えた大切な気持ち、20年間生きてきてやっと見つけた大切な気持ちが、ただ消えゆくのを見守っているだけなのは嫌だった。その気持ちが自分にとって大切であるのならば、それを守る努力をしたい。そのための手段は、やはり告白ということになる。「彼女」の恋人という立場があれば、彼女ともっと話ができる。彼女のことをもっともっと好きになれる。私は、彼女のことが好きだった。そして、彼女のことをこれからも好きでいたかったのだ。
それに、彼女への告白が成功するかどうかは、東大の院試を受けるか受けないかの判断材料にもなるのだった。告白をずるずると引き伸ばし、院試を受け損ね、それから告白に失敗したとなっては目も当てられない。もう、次のデートで告白する以外の選択肢は考えることができなかった。引っ越して新年度から環境が変わった彼女の周りには、私以上に彼女の恋人にふさわしい存在などいないはずだ。人間関係がまだまだ浅く、ライバル不在の今がチャンス。私は強気だった。振られることも想定はしていたが、十中八九OKしてもらえると思っていた。

・2019年5月4日
青く晴れた午後の空を眺めながら、私は告白のタイミングを伺っていた。ベンチに座る私の隣には「彼女」がいる。目の前ではダムが静かに水を湛え、後ろでは木々の枝が風に揺れてカサカサと音を立てていた。二人ともが沈黙していた。額にじわりと汗が滲むのは、果たして初夏の陽気のせいだろうか、それとも緊張のせいだろうか。
私は、ついに決意を固め、口を開いた。
「俺は、君のことが好き。だから俺と付き合ってほしい」
少し経って、彼女が答えた。
「勇気を出して言ってくれてありがとう。......嬉しい。でも私、人を好きになるってことが、まだあんまりよく分かってなくて。だからちょっと考えさせて」
彼女は、告白の返事を保留にした。

・2019年5月5日
昼頃、私は一通のメッセージを受信した。「彼女」からだ。
「昨日のことだけど、色々考えた結果、答えはNoです」
私は振られた。とめどなく涙が溢れてきて、ただ泣くことしかできなかった。泣けば泣くほど、自分は本当に彼女のことが好きだったのだという実感が深まっていった。もう、私は彼女を好きでいることは許されないのだ。私は布団の中に閉じこもって、何時間も何時間も泣き続けた。
夕食の時間になった。涙はもう乾いていた。私は自室を出て、父と母が待つリビングに行った。しかし、せっかく用意してもらった夕食を前にしても、あまり食欲は湧かなかった。私は、努めて平静を装うようにしていたが、やはりどこか様子が普段と違っていたのだろう。どうかしたのか、と尋ねられた。私は答えた。
「......大学に、行きたくない」
ゴールデンウィークは明日で終わる。明日は京都に戻る日だった。それが、憂鬱で憂鬱でならなかった。私の発言に戸惑う両親に対して、私は、鬱病と診断されたこと、今の専門分野に違和感を覚えていること、そして、京大の退学と東大への進学を考えていることを訥々と伝えた。
しかし、私の言葉はにわかには受け入れがたかったようだった。父は、「京大を辞めるんやったら、留学したらええんちゃう」と言った。鬱病で衰弱しきった今の自分に、そんな気力があるとは到底思えなかった。自分が弱っていることが、父にはうまく伝わっていないようだった。母は、無言でテレビを眺めていた。
私は自室に戻った。今まで、気分が沈んでどうしようもなくなったときは、文章を書くことで自分の状態への考察を深めてきた。今回もそうしよう。書くことが、今の私にとって唯一の処方箋だ。私はノートパソコンを開いて、自分のblogにログインし、「新しい投稿」をクリックした。タイトルは......「初恋」にしよう。私はこう(*1)書き始めた。
「自らの思考や感情を整理する方法を、私は書くこと以外に知らない。鬱々とした気分になったときは、ずっと文章に綴ってきた。だから今回も書くことにする。 私は失恋した。」
カタカタと文章を打ち込み続けていて、ふと、疲れたな、と感じた。私はノートパソコンを閉じ、ベッドに入って、照明を消した。(続く)

(*1)現在の版は、初稿から何度かのマイナーチェンジを経て文章が少し変わっている。ref.「初恋(1)」

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