2021年8月11日水曜日

量子化学の話

先日、ある国立大の化学科の学部生の人と話をしていて、量子化学の話になった。そこで気が付いたのは、量子力学の基本的な事項がほとんど理解されていないということだった。例えば、古典力学は量子力学のマクロな近似であるということも知らなかったのである。これでは、例え井戸型ポテンシャルのシュレーディンガー方程式が解けたとしても、一体何をやっているのか全然理解できなかったであろう。

私が最初に量子化学に触れたのはB1の「構造化学」の授業だった。私はこの授業が全く理解できずに落第すれすれの成績を取ったのだが、今思えばこれは教え方が悪かった。私は、たまたま授業が悪かったというよりも、量子化学の標準的な教え方自体が根本的な問題を抱えていると考えている。多くの量子化学入門の教科書ではシュレーディンガー方程式から論理的に導けることとそうでないことがごちゃごちゃに書かれており、論理的構造が不明瞭になっているのだ。これは恐らく普遍性よりも個別的観察事実を重視する化学という学問の性質から来ているのであろうが、シュレーディンガー方程式に初めて触れる初学者に優しい態度とは言えないだろう。
私が受けた量子化学の授業は、このような順番で進められた。まず二重スリット実験を紹介し、古典力学の限界に触れる。前期量子論、シュレーディンガー方程式と進み、シュレーディンガー方程式を解いてみる。水素型ポテンシャルのシュレーディンガー方程式を解き、エネルギー固有状態を1s, 2s, 2p, ......軌道と名付ける。そして軌道の概念を使ってH2などの分子の化学結合について考察して終わる。
しかしこの進め方には大きな問題がある。「水素型ポテンシャルのシュレーディンガー方程式を解き、エネルギー固有状態を1s, 2s, 2p, ......軌道と名付ける」の部分である。
そもそもなぜ物理学においてエネルギー固有状態が重要なのかというと、エネルギー固有状態ではない(純粋)状態でもエネルギー固有状態の線形結合に分解しておけば時間発展を簡単に追うことができるためである。つまり、量子力学において、「エネルギー固有状態」という言葉は「状態の時間発展を追う際に一番便利な線形空間の基底」という文脈で登場する。時間に依存しないシュレーディンガー方程式が固有値問題の形をしているのは、線形空間の基底の選び方に関する問題だからだ。
一方で、化学の分野で「軌道」と言った場合、単に「エネルギー固有値に対応する状態」以上の意味を持つ。そこには化学結合の理解に重要な概念であるというニュアンスが含意されている。従って、「水素型ポテンシャルのシュレーディンガー方程式を解き、エネルギー固有状態を1s, 2s, 2p, ......軌道と名付ける」というのは、一見単なる名付けのように見えるが、それ以上の深い意味を含んでいる。ここでは、暗黙のうちに「エネルギー固有状態の概念を使って化学結合を解析できる」という主張が入っているのだ。
しかしこれは論理の飛躍である。化学反応は、複数の電子が関わって形成されるものだ。これはフェルミ粒子の多体問題に相当するのだが、これを量子論で扱うには場の量子論の知識が必要である。とはいえ物理専攻でもない学生にここまで教え込むのは困難だ。そこで登場するのが軌道の概念であり、これを使うことで複雑な場の量子論をすっ飛ばして思考を節約するのである。
こうした事情は学生には全く伝えられない。むしろ、こうした事情を伝えないためにわざとぼかして教えているように見える。これが学生に混乱をもたらす。

私は、量子論から出発するという講義の構成がよくないと思っている。これが、一見全てが演繹的に導かれているかのような錯覚を与える。第一、量子化学の授業において、量子論は二重スリット実験だとか水素原子の輝線スペクトルだとかを説明しようというモチベーションで出てきたものではないはずだ。シュレーディンガー方程式は、軌道の具体的な形を求めるための方法として導入するべきである。つまり、授業全体の構成を逆転して、とりあえず軌道を使って化学結合を解析するところから始め、軌道の概念に慣れた後、シュレーディンガー方程式を天下り的に出すのである。元々天下りのものを天下りでないように見せるからよくないのだ。天下りのものは天下りとして見せるのが誠実だろう。

構造化学の授業は、今の私が教えた方が幾分マシなのではないかと思うレベルで酷かったと思う。ALESSにしてもそうだが、前期課程にはカリキュラム自体がおかしいのに問題が放置されている授業が多い。教える側がこれを教えたいからといって教えるのではなく、ちゃんと学生に理解してもらうことを考えてほしいものである。