2019年9月23日月曜日

続・私の院試体験(4)

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・2017年1月~2017年3月
「彼女」(*1)は、そんな私の前に現れた。彼女は、誠実で、謙虚で、実直な人だった。彼女は成績優秀な学生だった。私は彼女に尊敬の念を抱いていた。だが、彼女は決して完璧な超人というわけではなかった。その成績は、彼女の並々ならぬ勤勉さによって支えられたものだった。彼女が私の前で吐露したのは、大学の勉強についていくことの大変さだった。彼女は、私の苦悩の一部を共有できた相手だった。彼女と話すのは楽しかった。ああ、こんなにも話の分かる人だったとは。私は心安らぐ思いがした(*2)。帰宅したとき、私は彼女にまた会いたいと感じた。それが恋心の萌芽だったとは、このときは想像だにしなかった。

・2017年4月~2017年12月
気付けば、私は「彼女」に友情以上の特別な感情を抱くようになっていた。それは初めての体験だった。私は、自分自身の内面の変化にどう対処すればよいのか分からなかった。私は時間をかけて自分の感情に向き合い、そしてその感情が恋愛感情であることをゆっくりと受け入れていった。両親の不仲により、私の中では恋愛への不信感が形成されていたのだが、彼女ならそれも融かしてくれるのではないかと思われた。
学年が上がって3年生になり、勉強は一層ハードさを増した。それと歩調を合わせるように、私の学問第一主義の思想も一層先鋭化していった。先鋭化された思想は私の行動を制限し、閉じられた人間関係の中で「彼女」以外の選択肢は覆い隠された。更に、絶望と憂鬱のスパイラルは、絡まり合って希死念慮という塊を作り上げた。かくして、私の心の中では恋愛感情と希死念慮の両方が日に日に膨張していった。

・2018年1月~2018年3月
4年生への進級を目前に控え、Sセメスター(*3)分の研究室配属の希望調査票が配られた。どこの研究室を志望するかは難しい問題だった。物理学を基盤として生命現象を理解したいといっても、具体的にどうすればよいのか、どういうことをすれば自分が今まで身につけてきた知識を活かすことができるのか、どうすれば生命現象を”理解”することができるのか、いくら考えても結論を出すことはできなかった。
私はこれまで物理学と数学を中心に勉強してきており、生物学には疎かった。そのため、自分には物理学色の強い研究の方が有利であるように思われた。しかし、そうした物理に立脚して生命の生命らしさを探っていくような研究は、私が想像していたよりも発展途上の段階にあった。天才の現れを待たない限り、物理寄りのアプローチをしても私が知りたいことは何も分からないのではないかと感じられた。一方で、生命寄りの実験に取り組むこともためらわれた。私は生命科学の基本的な実験操作に習熟しておらず、生命実験をする上で不利なように思われた。私は、今まで勉強してきた物理学をなるべく直接的な形で活かしたいと考えていた。 色々と悩んだ果てに、窒素分子にレーザーを当てたときの様子を調べている、「分子分光学」と呼ばれる分野の研究室を志望することにした。その主な理由としては、
  • 量子力学の世界を実験的に体感することで、より深く物理学を理解できると考えた。分子分光学の世界は固体物理の世界よりも起こっている現象とシュレーディンガー方程式(*4)との対応が分かりやすく、学習の素材として向いていると思われた。
  • 大学院からの研究テーマ候補の1つとして「渡り鳥の磁気コンパス(*5)の仕組みの解明」というものを考えており(*6)、分子分光学的研究における実験操作に習熟することはその研究をする上でプラスになると考えた。
  • 先生が優しく暖かい人柄をしていた。
といったものが挙げられる。他に同じ研究室を希望した学生はおらず、私の希望は自動的に叶えられた。こうして、生物学とは直接的には何の関係もない、化学(*7)の研究室に配属されることになった。(続く)

(*1)もちろん、「初恋」の「彼女」と同じ人物を指している。
(*2)この頃の私は、しばしば友人たちがお酒やバイトや異性の話で盛り上がっている場面に遭遇した。私はそういった輪にうまく入ることができず、その度に疎外感を覚えていた。
(*3)東大では、4月から9月にかけての年度の前半をSセメスター(夏学期)と呼ぶ。年度の後半はAセメスター(秋学期)である。いわゆる前期と後期なのだが、東大で前期・後期というと前期課程(1年生と2年生)・後期課程(3年生以降)のことを指すことが多い。
(*4)量子系の時間発展を記述する方程式。量子力学の基本原理である。
(*5)光受容性タンパク質「クリプトクロム」が渡り鳥の磁気コンパスに関与していると考えられている(Ritz, Adem & Schulten, 2000)。
(*6)溶液中でクリプトクロム内のラジカル対の様子を観察するための手法が2015年に東大で開発されている(Beardmore, Antill & Woodward, 2015)。
(*7)通常、分子分光学は化学の一分野に位置付けられる。

[参考文献]
  • Beardmore J. P., Antill L. M. & Woodward J. R., (2015). Optical absorption and magnetic field effect based imaging of transient radicals. Angew. Chem., 54. pp. 8494–8497.
  • Ritz T., Adem S. & Schulten K., (2000). A model for photoreceptor-based magnetoreception in birds. Biophys. J., 78. pp. 707-718.

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