2019年10月13日日曜日

麻薬の話

さて、リクエスト通り麻薬の話でもしようか。

一体なぜ、私はこうなってしまったのだろうか。どうして私はこんなに麻薬に傾倒しているのだろうか。昔はこんなではなかったはずだ。では、一体どこからこの麻薬好きは始まったのか。

......絶望からだ。

「続・私の院試体験(3)」で述べたように、私の底には絶望が澱となって積み重なっていた。私の憂鬱は、自らの生きる目的に起因するものだった。"呪縛"は、自分のアイデンティティに強固に根ざして剥がれなかった。苦しい。苦しい。苦しい。だが、自分が自分である以上、この苦しみからは逃れられない。勉強も、遊びも、食事も、自分に満足を与えないのなら。そして恋愛をすることも許されない(*1)のなら。何なら私を幸せにしてくれるのだろう。私は自分をやめたかった。
そのための手段として思い付いたのが麻薬だった。麻薬は、使えば強制的に幸せになれるのだという。麻薬なら、自分に喜びを与えてくれるのではないだろうか。私は目の前の苦しみから逃れたかった。麻薬によって多幸感に包まれた後、急性薬物中毒で意識を朦朧とさせながら死ぬ。理想の人生だと思った。
私は、そもそも自分なんて初めから生まれなければよかったのにと思っていた。だから、麻薬は、ある意味私にとっての希望だった。死は救い。死ねばもう頑張らなくていい。麻薬は、自分を多幸感で包んで救いへと優しく導いてくれる。私は疲れ切っていた。欲しい。麻薬が欲しい。麻薬を使って自殺したい。麻薬への渇望の餌となったのは、私の希死念慮だった。

私は諦念に支配されていた。それは、自分の人生は何をどうやっても良くならないという意味だけでなく、この社会は何をどうやっても良くならないという意味においてもだった。私は、平和を心から望んでいた。しかし、成長して大人になればなるほどに気付いたのは、この世界がいかにユートピアから程遠いかということだった。若かりし頃の私には、社会を良くしたいという気概がまだ幾分かはあった。こうすればもっと世界は平和になるのではないか。人類がこうなればもっとみんなが幸せに暮らせるのではないか。そういう理想を、自分なりに描いていた。
だが、己の憂鬱が深まるにつれて、そういったことが全てどうでもよくなってきた。自分が何をしようと無駄だ。自分が無力だとか、人類が愚かだとか、そういう次元の問題ではない。そもそも、世界がみんなが幸せになれるようにできていない。この世界は物理法則からしてクソなのだ。
人間は、根本的に苦しみと紐付けられている。人間は、その設計者の策謀によって無理矢理生かされているだけの、遺伝情報の捨て駒に過ぎない。つまり、我々が生まれてしまった時点で失敗なのだ。社会の存続、人類の存続なんてクソ喰らえだ。こんなゴミが続いたところで何にもならない、意味がない。苦しみを宿命づけられた可哀想な存在者どもをこれ以上増やす前に、とっとと絶滅してしまえ。......ただし、誰も苦しまないよう、平和的に。
私は、強力な麻薬が蔓延した世界を想像した。みんな、争いも、食事も、生殖も、何もかもがどうでもよくなってしまって、ひたすら退廃的に麻薬をキメては一人、一人と幸せそうに死んでいく。なんと理想的な世界だろうか。こんなカスみたいな世界は捨ててしまって、みんなでとっととあの世に行けばいい。そう、今の幸福だけが全て。幸せなんて刹那でいい、偽物でいい、破綻する前に死んでしまえばいいのだから......。

こうして私は段々麻薬について考えることにハマっていった。私は、少しでも明るく生きるために、自分の絶望を笑い飛ばそうと考えた。そして、その絶望に抗うための、希望の象徴こそが麻薬だった。だから私は麻薬を題材にした漫画を作り、自分のペシミスティックな思想をコミカルに描いた。これが思いの外ウケがよかったため、どんどんエスカレートして今に至っているというわけである。

(*1)ref.「続・私の院試体験(5)」

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