2019年10月18日金曜日

理想のディストピア

私は比較的リベラル寄りの思想を持っていると自認している。すなわち、個人の自由を重視し、それに対する社会的抑圧に反発する。また、全ての人に平等に権利が与えられるべきであり、多様性は尊重されるべきだと考える。
この考えを推し進めて行くと、その先にはどのような社会が立ち現れるのだろうか。皆が自由で、平等に暮らせる楽園だろうか。いや、そこは決して楽園ではない。全体は部分の総和ではない。個々に幸福を追求する個人が集積した社会は、決して全体としての幸福を実現できないだろう。

それを最も分かりやすい形で我々の前に示してくれたものの1つが、自由恋愛市場である。資本主義経済を見ればたやすく分かるように、自由化には「富める者をますます富ませ、貧しき者をますます貧しく」し、格差を拡大させる効果がある。この効果を抑えるべく、所得再分配という制度が考案された。政府が徴税と社会保障を通して富裕層から貧困層へと富を移し替える仕組みのことだ。しかしながら、自由恋愛市場においてはそのような操作は許されない。お金と違って、生身の人間には感情があり、意思があり、そして人権がある。結果として、恋愛市場においては、その自由化の影響が露骨に現れる形で競争の激化と格差拡大が発生し、敗者の増加がもたらされることになる。こうしたモテない敗者たちは、「自己責任」という言葉で片付けられてしまっている。
付け加えるならば、恋愛が本質的に「政治的に正しくない」営みであることも事態を複雑化していると言える。自分の行動がセクハラになるリスクを完全に避けながら恋愛を行うことは、ほとんど不可能であると言ってよい。ある人が他者のセクシュアリティを尊重しようとすればするほど、その人は恋愛ごとから遠ざからねばならない。今やお見合いをセッティングすることも憚られるようになった。その結果、男女が結婚を希望しながらもマッチングしないということが頻発している(*1)。このように、個々人の自由の尊重が全体としての最適化をもたらさないということが往々にして起こるのである。

個人が自由になればなるほど、個々人の間での利害の対立は激しくなる。個人が解放されればされるほど、文化的、宗教的、政治的な摩擦が起きる。トロッコ問題的な状況において、全体のために個人を犠牲にすることが許されないのならば、全体を犠牲にすることを選ぶしかない。そして、たとえ全体を犠牲にしてでも個人の権利を尊重せよ、というのが私の思想である。それが平等原則を貫くということだからだ。
この考えを推し進めれば推し進めるほど、社会は「自由なはずなのに幸福でない個人」の集合体へと変質していく。そこで私が提案するソリューションが、麻薬と安楽死だ。この世界は、もともと皆が幸福になれるようにはできていない。これはもう諦めるしかない。だが、この世界には麻薬というものがある。現実を見るな。人間をやめろ。自分の脳をハックしろ。そこにユートピアは顕現する。通常の意味の幸福が得られないのなら、麻薬で"幸福"感を得てしまえばよいのだ(*2)。
しかし、麻薬によって得られる幸福は刹那的であり、いつまでも何度でも得られる類のものではない。夢から醒めれば、あとは不幸へまっしぐらだ。だから、その限界が来たら死ぬしかない。死ねばもうそれ以上は不幸にならないし、薬物乱用の反動に苦しめられることもない。どうせ幸福になれないのなら、麻薬でパーッと一時的にでも"幸福"感を味わって、それで満足して死んでしまえばいいのだ。

個人に限りない自由が与えられ、社会全体では激しい競争と対立が起き、そこに敗れた不幸な者たちは麻薬をキメた上で死んでいく。人間が死ねば死ぬほどに社会の機能は破綻して、不幸な人が増えていく。社会を構成する者は加速度的に減ってゆき、文明が維持できなくなって遂には人類が絶滅する。生という苦しみに支配される者はいなくなり、世界平和が実現される。
これが私が見据える「理想のディストピア」の姿である。

(*1)ref.「令和元年版 少子化社会対策白書」第1-1-15図.
(*2)ref.「麻薬の話」

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