2021年10月13日水曜日

天皇制を廃止しよう!

先日、眞子内親王が複雑性PTSDを発症されたとの報道があった。結婚に関して非難を浴び、強いストレスに晒されたのが原因だとのことだった。
眞子内親王は皇族だが、そもそも好きで皇族になったわけでもない。このように自由を制限され、人権を無視した報道を受け続けるのは歴とした門地による差別である。千代田区千代田1の1やらなんやらは今や日本最大の被差別部落と言っても過言ではない。日本国民は皇族を敬っているように見せかけて、その実、非人のように扱っているのだ。
天皇制は長い歴史を持つ。伝統と言えば聞こえがいいが、私に言わせればこれは単なる惰性である。戦後作られた日本国憲法は天皇を日本国民統合の象徴と規定しているが、そんなものを人間ごときに背負わせるのは重荷が過ぎる。現在の国民は天皇に精神的に依存していると言い換えても良い。だから毒親のように皇族のやることなすことにいちいち口を挟もうとするのである。象徴なんて国旗なり切手なり子猫様なりにでもやらせておけば十分だ。
第一、日本国民統合の象徴だと言っておきながら、その統合される日本国民の中に天皇が含まれていないのは矛盾ではないか。理想の振る舞いを皇族に押し付け、それによって統合された日本という虚像を作り上げようとする現在のやり方は根本的に誤っている。国民の精神的自立を促し、真なる統合を実現するためにも、日本は今すぐ憲法を改め、天皇制を廃止して共和制に移行すべきだ。

2021年10月12日火曜日

飲酒の範囲

今日は寒い。雨のせいもあってか、急に冷え込んだ感覚だ。冷蔵庫を開けてみて、赤ワインが少し残っているのを発見した。以前牛すね肉のデミグラスソース煮込みを作ったときの残りである。この際だからと思って飲み干した。冷えていた体がじりじりと熱くなる。脳は少しぼんやりとして、次第に眠くなってきた。少し酔っているようだ。
酔うほど酒を飲むのは久しぶりだ。正月以来だろうか。最近は嗜好品としての酒を滅多に飲まない。吝嗇な性格のために酒税を払うのを惜しんでいるというのも大きいが、アルコールは健康に悪いと信じているという理由もある。アルコール依存を防ぎたいという考えからとにかく飲酒量は控え目控え目を心がけていたのだが、それがどんどんエスカレートして断酒に近いところまで来てしまった。飲酒量が減少方向にエスカレートするという妙な例が今の私である。

問診や雑談などで、「週にどれくらい酒を飲むのか」と尋ねられることが時々ある。この質問にどう答えるのが正しいのか私はいつも迷う。酒を飲まないとはいったものの、養命酒という例外があるからだ。養命酒を低脂肪牛乳で割るのが私のお気に入りの飲み方である(*1)。酒は健康に悪いと思っている私であるが、養命酒ならばきっと健康に良いはずだと信じている。実際どうなのかは知らない。
養命酒を酒としてカウントするならば、飲酒の頻度は週5日程度ということになる。しかし、養命酒を飲むのは一般的な飲酒の形態とは程遠い。1回の量は20 mLとごく少なく、ほとんど酔わない。養命酒は嗜好品ではなく医薬品である。従ってこれは飲酒というよりも服用と表現した方が適当だろうと考えて、最近は「ほとんど飲まない」と答えることが多い。とはいえそれも私の気まぐれだ。答え方はコロコロ変わっている。君子豹変す、である。

(*1)養命酒を割って飲むのは公式に推奨はされていない。

2021年10月8日金曜日

ツッコミが引く境界線

4, 5年くらい前のことだっただろうか。高校のときに地理を教わったI先生に会ったときの出来事をふと思い出した。私はそのとき高校の同級生M(男性)と一緒にいた。Mは、近くに住んでいる友人O(男性)の部屋が汚く、しょっちゅう行って掃除してやっているという趣旨の話をした。I先生は
「彼女か!」
と咄嗟にツッコんだ後、
「いや、えんやでえんやで、男同士で付き合っても」
とフォローした。私は、そのフォローを聞いて、真面目な人なんだなと思った。

ツッコミの一つの基本的な役割として、「ボケ」の異常性を指摘することにより「ボケ」が笑いの対象であることを明確にする、というものがあるだろう。「ボケ」と「聞き手」の間に境界線が引かれることで、聞き手は境界の向こう側の「自分とは違う」人間を安心して笑うことができるのだ。
しかし、このツッコミが持つ「分断」の作用はポリティカルコレクトネスの概念とやや相性が悪い。多様性の実現を目指す現代の世界において重要なのは「包摂」である。一見異常なように思えても、それは単に多数派と違う少数派というだけだ。そして、少数派を自分と同じ側の人間として迎え入れるのが政治的に正しい態度というものだ。極端な話、
「布団が吹っ飛んだ!」
「なんでやねん!布団が吹っ飛ぶわけないやろ!」
というやりとりが
「布団が吹っ飛んだ!」
「うんうん、そういうこともあるよね。大丈夫だよ。君の布団が吹っ飛んでも、私はずっとここにいるよ」
という風になるのである。まあこんな極端なことにはならないだろうが、ここまで来るととんだボケ殺し、こちとら商売上がったりだ。

だからどうすべきだというのは私にはよくわからない。これはこれで良い傾向なようにも思われる。ともかく、ポリティカルコレクトネスの概念が、笑いを作る行為に潜む本質的な難しさを浮き彫りにしているのは確かだろう。

2021年9月28日火曜日

ダンディ坂野は自力で"ゲッツ!"をやめられない

先日、【大麻】に送るジャージちゃん2というLINEスタンプがあるのを発見し、思わず買ってしまった。そして、友人Yとそのことについて話した。

Y「これ名前のところを自由に変えられるやつやろ?なんか見たことあるで。女子が彼氏に送るLINEスタンプをこんな風に使うとは......」
私「いや、これ自分で"オオアサ"って打ったんじゃなくて、元から"オオアサ"やねん。作った会社がいろんなシリーズを出しとって、その"オオアサ"版がこれ。これ"タイマ"じゃなくて"オオアサ"さんやから」
Y「え!?オオアサさんなんておる?」
私「こんな親しげやのに苗字呼びっていうところもおもろいよな」
Y「すごいな。でも君が使っているからこそ"オオアサ"じゃなくて"タイマ"に見えるっていうのはある。君の草の根の活動によって、誰も"オオアサ"と読む人はいなくなった。"草"の根......そう、"タイマ"だけに」
私(笑う)
Y「でもこれ、ネタのためだけにお金出して買ったんやろ?それはもうプロ意識の芽生えやよ」
私「プロ意識?」
Y「例えばダンディ坂野が今更"ゲッツ!"をやめるとは思えへんわけやん。そういう域に達しつつある」

これを聞いて、私はある薬物依存症の人が警察に逮捕されたときに感謝したという話を思い出した。薬物をやめたくても自力ではやめることができないため、強制的に自分にストップをかけてくれた警察が助けのように見えたということだった。
私はブラックジョークを通じて自分で自分を楽しませることを重視していたため、人からどういう風に見られているかをあまり意識してこなかった。しかし、これはいよいよまずいことになってきたかもしれない。もう少し自制心を効かせた方がよいだろうなと思った。

2021年8月11日水曜日

量子化学の話

先日、ある国立大の化学科の学部生の人と話をしていて、量子化学の話になった。そこで気が付いたのは、量子力学の基本的な事項がほとんど理解されていないということだった。例えば、古典力学は量子力学のマクロな近似であるということも知らなかったのである。これでは、例え井戸型ポテンシャルのシュレーディンガー方程式が解けたとしても、一体何をやっているのか全然理解できなかったであろう。

私が最初に量子化学に触れたのはB1の「構造化学」の授業だった。私はこの授業が全く理解できずに落第すれすれの成績を取ったのだが、今思えばこれは教え方が悪かった。私は、たまたま授業が悪かったというよりも、量子化学の標準的な教え方自体が根本的な問題を抱えていると考えている。多くの量子化学入門の教科書ではシュレーディンガー方程式から論理的に導けることとそうでないことがごちゃごちゃに書かれており、論理的構造が不明瞭になっているのだ。これは恐らく普遍性よりも個別的観察事実を重視する化学という学問の性質から来ているのであろうが、シュレーディンガー方程式に初めて触れる初学者に優しい態度とは言えないだろう。
私が受けた量子化学の授業は、このような順番で進められた。まず二重スリット実験を紹介し、古典力学の限界に触れる。前期量子論、シュレーディンガー方程式と進み、シュレーディンガー方程式を解いてみる。水素型ポテンシャルのシュレーディンガー方程式を解き、エネルギー固有状態を1s, 2s, 2p, ......軌道と名付ける。そして軌道の概念を使ってH2などの分子の化学結合について考察して終わる。
しかしこの進め方には大きな問題がある。「水素型ポテンシャルのシュレーディンガー方程式を解き、エネルギー固有状態を1s, 2s, 2p, ......軌道と名付ける」の部分である。
そもそもなぜ物理学においてエネルギー固有状態が重要なのかというと、エネルギー固有状態ではない(純粋)状態でもエネルギー固有状態の線形結合に分解しておけば時間発展を簡単に追うことができるためである。つまり、量子力学において、「エネルギー固有状態」という言葉は「状態の時間発展を追う際に一番便利な線形空間の基底」という文脈で登場する。時間に依存しないシュレーディンガー方程式が固有値問題の形をしているのは、線形空間の基底の選び方に関する問題だからだ。
一方で、化学の分野で「軌道」と言った場合、単に「エネルギー固有値に対応する状態」以上の意味を持つ。そこには化学結合の理解に重要な概念であるというニュアンスが含意されている。従って、「水素型ポテンシャルのシュレーディンガー方程式を解き、エネルギー固有状態を1s, 2s, 2p, ......軌道と名付ける」というのは、一見単なる名付けのように見えるが、それ以上の深い意味を含んでいる。ここでは、暗黙のうちに「エネルギー固有状態の概念を使って化学結合を解析できる」という主張が入っているのだ。
しかしこれは論理の飛躍である。化学反応は、複数の電子が関わって形成されるものだ。これはフェルミ粒子の多体問題に相当するのだが、これを量子論で扱うには場の量子論の知識が必要である。とはいえ物理専攻でもない学生にここまで教え込むのは困難だ。そこで登場するのが軌道の概念であり、これを使うことで複雑な場の量子論をすっ飛ばして思考を節約するのである。
こうした事情は学生には全く伝えられない。むしろ、こうした事情を伝えないためにわざとぼかして教えているように見える。これが学生に混乱をもたらす。

私は、量子論から出発するという講義の構成がよくないと思っている。これが、一見全てが演繹的に導かれているかのような錯覚を与える。第一、量子化学の授業において、量子論は二重スリット実験だとか水素原子の輝線スペクトルだとかを説明しようというモチベーションで出てきたものではないはずだ。シュレーディンガー方程式は、軌道の具体的な形を求めるための方法として導入するべきである。つまり、授業全体の構成を逆転して、とりあえず軌道を使って化学結合を解析するところから始め、軌道の概念に慣れた後、シュレーディンガー方程式を天下り的に出すのである。元々天下りのものを天下りでないように見せるからよくないのだ。天下りのものは天下りとして見せるのが誠実だろう。

構造化学の授業は、今の私が教えた方が幾分マシなのではないかと思うレベルで酷かったと思う。ALESSにしてもそうだが、前期課程にはカリキュラム自体がおかしいのに問題が放置されている授業が多い。教える側がこれを教えたいからといって教えるのではなく、ちゃんと学生に理解してもらうことを考えてほしいものである。

2021年7月10日土曜日

晴れ間

今朝起きると、久しぶりに晴れ間があることに気が付いた。ここ数日はずっと雨で、洗濯物がまるで乾かない上、目覚めも悪く、鼻水も出るカスのような日々が続いていたため、日差しを発見したときは思わず嬉しくなった。今日は土曜日である。
朝食として栄養ドリンクと烏龍茶を飲んだ後、買い物をしにスーパーに行った。道の途中で、不燃ゴミを出し忘れていたことに気が付いた。いつだったかの地震でガラスのビーカー(*1)が割れてしまったのである。私の住んでいる地域では、不燃ゴミの収集は月に一度しかない。ビーカーを捨てるのは来月に持ち越しとなった。私はこうして年単位でビーカーを捨てるのを持ち越し続けている。
スーパーで買い物をしていたら、急にお腹が痛くなった。慌ててスーパーを一旦退店し、近くのローソンへ行って排泄した。下痢便だった。思い当たることはあった。昨日米を半日放置してから食べたのだ。底がピンク色になっていた。ピンク色の部分は捨ててから食べたものの、やっぱり良くなかったのだろう。帰ったらビオフェルミンを忘れず飲んでおこうと考えつつ、トイレットペーパーで尻を拭いた。
排泄させてくれたお礼に何か買おうかとも思ったが、特に買うべきものが思いつかなかったため、そのまま退店した。次何かコンビニに用があればローソンを少し贔屓したいと思う。排泄を済ませた後はお腹が痛くなることもなく、悠々と買い物を済ませた。
帰り道でバニラヨーグルトのラベルが落ちているのを発見し、拾って家に帰ってから捨てた。一方でタバコの吸い殻は見つけても無視した。私の美化意識はこの程度のものだ。ズッキーニと豚肉を黒酢で炒め、昼食として食べた。美味しかった。

(*1)cf. 「粉寒天の使い方」