2020年7月21日火曜日

人助けについて

ベビーカーを見るたびに思い出すことがある。ある日、赤ちゃんの母親が街でベビーカーを持って1人で大変そうに階段を上っているのを見かけたのだが、約束に遅れそうだったのか何だったのか、とにかく急いでいるからといってそのまま横を通ってしまったのだ。外で困っている人を見たら極力助けるようにしている(*1)が、このときばかりは見捨ててしまった。以来、自分のこの行いは果たして正当化されうるのだろうかとしばしば考えるのである。
障害のある方やお年寄りなどを助けるのは確かにちょっとした善行ではあるだろうが、しかしそれほど美談というわけでもない。誰であっても初めから困ることのない社会こそが理想であって、我々はそこを目指さないといけないと思うのだ。現実的にはそうした理想の実現は困難であり、障害のある方などに不便を強いてしまっているわけである。例えば、仮に街の各所にエレベーターがあれば交通弱者の不便は減らせるだろうが、そうしたものを設置しないことによって税負担が軽減されているという側面はあるだろう。所詮手助けなんて、金を惜しんで不便な社会を作り上げてしまった強者側のせめてもの罪滅ぼし程度のものでしかない。

自分に余裕のない状態では、なかなか他人を助けようという気にはなれない。私はしばしば「幸福な王子」のストーリーを思い出すのだが、この世界には無数の差別や貧困が存在していて、それら全てを解決するのには無限のリソースが必要となる。ここで私はジレンマに直面する。すなわち、持ちうる限りのリソースを極限まで他人に割いて「幸福な王子」となるのか、それとも問題があることを知っていながら、そしてそれを少しでも改善できるであろうリソースを持ちながら、敢えて見殺しにするのかである。
私は結局のところで利己主義者であるから、他人を見捨てることで浮くリソースと、他人を助けることで得られる快感を天秤にかけて、心が傾いた方をとるだけである。その意味で私の"優しさ"は優しさでなく、単なるエゴイズムの産物だ。かつての私は自分の持つ善性を純粋に信じていたが、今やそんなものは信じていない。考えれば考えるほど、自分さえよければそれでいいという自らの冷酷さが浮き彫りになるばかりである。
以前、性犯罪の被害にあったという人から、「本を読んで、女性の人権等についてもっと勉強し、もっと考えを深めてほしい」「よりよい社会を作るため、できることをやっていこう」という趣旨のことを言われた(*2)。しかしながら、それをする時間が惜しいこともあって、薦められた本は未だに一冊も読んでいないし、何かできそうなことを新たに始めたということもない。「これ以上自分の時間などを割いて何かする必要があるのだろうか。それは政治家の仕事だろう」ともしばしば思う。だが、政治家を選ぶのは結局我々国民である以上、政治家に「仕事」をしてもらうためには我々が賢くなるしかない。自らの怠惰と吝嗇の正当化が単なる欺瞞に過ぎないことをよく自覚しながらも、私は尚欺瞞の内側に篭り続けているのだ。

(*1)とはいえ、あまり街に出ないこともあって実際に人助けをしたことは人生に数度しかない。
(*2)一応、私の人権意識が普通より著しく低いと非難する意味ではないだろう。

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