2018年12月5日水曜日

薬物に対する思い

宮田珠己「旅の理不尽 アジア悶絶編」を読んでいる。これはタイトルからわかる通り旅行記なのだが、ただの旅行記ではない。ネパールでボートを漕いでいたら雨で沈みかかって必死で漕ぐはめになっただとか、ミャンマーで乗った馬車の馬が屁ばかりこいているだとか、延々くだらない話ばかり載っている旅行記なのである。
くだらないので軽く読み進めていたのだが、途中バリの章で読むのがつらくなり、ページをめくる手を止めてしまった(*1)。マジックマッシュルームを食べた、という話の章だ。私は普段薬物のことばかり考えていて(*2)、コインという単語を見たらコカインと勘違いし、タイマーという単語を聞いたら大麻と勘違いするような生活を送っている。それゆえに薬物のことが大好きであると誤解されることも多いのだが、実は薬物が大の苦手なのだ(*3)。薬物の使用感を想像すると、強烈な恐怖感に襲われてしまう。
私と薬物との最初の出会い(*4)は、小学校か中学校かの教科書だった。マルを描いて下さいと言われて薬物依存症の人が描いた、ものすごく歪んだ奇妙な形の図形を見たときの衝撃は計り知れない。自分の心というか、自分を自分たらしめている、「脳を通した入出力機構」が、薬という外的な作用でここまで歪められてしまうことが果てしなく怖かった(*5)。私はその授業中、腰が抜けてずっと力が入らず、教科書もペンもまともに持てなかった。シャーペンで紙を撫でるようにしてノートを取るのが精一杯であった。成長してもなおこの症状が治ることはなく、薬物の授業があるたびに弱々しい字でノートをとった。
私は酒に対しても同じ恐怖感を抱いていた(「不飲酒戒」参照)。アルコールも人を変えてしまう点では違法薬物と変わらない。陽気になるだけならまだよいが、暴力的になることもある。どの程度飲めばどのように気分が変化するのかが多少はわかるようになったことで恐怖感は薄れたが、それでも私の根底には恐怖感が巣食っていて、酔いを心から楽しむことはできない。私は今でも飲酒に消極的である。
また、私は他にも似たような作用を持つ"クスリ"を摂取した経験が一度だけある。それが具体的に何なのかはここでは述べないが、完全に合法的に手に入れたものだとは言っておく。これを摂取したときは心から怠惰が消え去り、テンションが上がって活動的になった一方で、焦燥感も増幅された。私はこの自分自身の変化に底知れぬ恐怖を覚えた。そしてこの恐怖が先ほどの「活動的」「焦燥感」と合わさって、訳も分からずその場から逃げ出したり、壁に頭を打ち付けたりしたい衝動に駆られ、非常に苦しかった。正直二度と体験したくない。

このように、私は薬物に対して人一倍の恐怖心を抱いている。しかし、逆説的だが、この薬物に対する強い気持ちは、裏返って(*6)薬物への憧れも形成した。私は、ある人が感じている幸せな気持ちがたとえ薬物によってもたらされたものであるとしても、それはそれで'本物'の幸せであり、幸せに真贋はないと考えている。ただ、薬物が作る幸せが一時的なだけである。だから、薬物の力で幸せを死ぬまで感じ続けることができるのなら、(たとえそれで一生が短くなったとしても)魅力的な話のように感じられるのだ。しかし、それは現実的ではない。現実にある薬物は、多幸感と引き換えに苦しみをもたらすはずだ。たとえ薬物の力に頼ったとしても、生きている限り苦しみからは逃れられないと思う。
だから、私の心には、空想的で抽象的な薬物を強く求める気持ちと、現実的で具体的な薬物を強く忌避する気持ちが同居している。この同居が、「スラム街での薬物の広がりを追ったドキュメンタリーに興味を持って見始めたが、注射のシーンで目を閉じて耳を塞いでしまう(9月6日のツイート)」「普段Twitterで薬物に関する冗談を頻繁につぶやいているのに、実際の薬物使用体験を冗談交じりに書いた本は読むことができない」といった行動を生んでいるのである。

(*1)そしてパソコンを起動し、この文章を書き始めた。
(*2)こう書くと実際に薬物を乱用したことがあるかのようだが、その経験はない。
(*3)こう書くと実際に薬物を乱用したことがあるかのようだが、その経験はない。
(*4)こう書くと実際に薬物を乱用したことがあるかのようだが、その経験はない。
(*5)私は、自分が存在すること、自分が意識を持っていることそのものが不思議だとしばしば思う。不思議に思うのだが、不思議に思っていると気持ち悪くなってくる。気持ち悪いので無理やり不思議に思うのをやめるのだが、不思議で仕方がないのでやっぱり不思議に思ってしまう。私は、幼少期からこの気持ち悪さを何度も感じ、その度に押さえ込んできた。おそらく、薬物に対する尋常ならざる恐怖感は、この気持ち悪さと根を同じにしているのではないかと思う。どちらも「私」が「自分自身の意識」(=「脳を通した入出力機構」)を考えるときに生じる感情、という点で共通しているからだ。この問題は、機会があればもう少し詳しく書いてみたい。
(*6)言い換えれば、恐怖心は今の自分を守るために「自分自身の意識」を破壊したくないという気持ちであり、憧れは「多幸感」を得るために「自分自身の意識」を破壊したいという気持ちである。

0 件のコメント: