2020年5月5日火曜日

弱者性

Twitterで、「女性は男性からの性暴力の被害に晒されやすい。つまり女性は弱者である。強者男性と弱者女性の不均衡を是正するためには、何らかのアファーマティブアクションが必要である」といった趣旨の意見を見かけた。だが、この手の議論には注意を要する。
ここで使われている「弱者」という言葉は、「身体障害者は交通弱者であり、配慮されるべきだ」というときの「弱者」とは少々意味が異なっている。そもそも男性が性犯罪等にあいにくいのは、単に男性は力が強いというだけの理由ではない。根底にあるのは、男性の肉体は女性のそれと比べて性的価値が低いという非対称性だ。価値があるから狙われるのであり、そもそも無価値なものは初めから見向きもされないわけである。かくして、「女性は弱者だ」という主張は「いやいや男性こそが弱者といえる」という反論を生み出す。これはどちらも同じコインを表裏から見ているだけのことであって、いくら議論しても話が噛み合うことはない(*1)。

ことジェンダーの問題となると、対象が身近なものだからだろうか、不毛な論争が起こりやすい。しかし、相互理解のもと適切に相手に配慮できるような成熟した市民社会を作り上げるためには、互いにレッテルを貼り合っていたずらに対立を深めるような言説は厳に慎まねばならないはずだ。ジェンダーに限ったことではないが、収穫ある議論を行うためには、対象への深い知識のみならず「議論を意味ある対話として成立させるためにはどうすればいいだろうか」を考えるというメタな視点が欠かせないといえるだろう。

(*1)もちろんできる限り犯罪は防がれるべきであるし、もし犯罪にあってしまっても被害者は救済されるべきである。特に、今の仕組みでは被害者当人が表に立って色々訴えねばならず、二重三重にその人を傷つけてしまっていることだろう。ただ、ここでしているのは、弱者が云々と言い始めると議論が訳のわからない方向に行ってしまい、導かれるべき結論も導かれなくなってしまうという話である。

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