2018年9月7日金曜日

書くことが思いつかない

友人にブログを更新するように言われたものの、書くことが思いつかない。

書くことがないというのはどういう状態なのだろうか。本当に何も思わず、何もせずに1日を過ごしたわけではない。ただ、その思考や行動はあくまで断片的なものであって、まとまった文章にならないのだ。例えば「起きた。眠い」といったツイートをすることがある。これはこれ自身で完結していて、なんらかの意味で特別な一日の始まりであるというわけでもない限り、それ以上の文章要素と相互作用して文脈を生み出すことがない。断片の羅列では文章にならない。全体が部分の総和でしかないのだ。文章が文章たりえるには、文章を貫く、文章の"意味"、"内容"、"主題"、"核"、"流れ"が必要である。以下では、この、文脈をつなぎ合わせたものを流れと呼ぶ。
何も書くことが思いつかない一日というのは、そうした(長めの)文章として落とし込まれるべき流れを見出したり、あるいは思い出したりすることができなかった一日である。文章の上では、流れ(の原型)が先にあって、流れと相互作用しない思考や行動は捨象されているわけである。
ツイートは断片的な思考と行動の羅列にすぎない。断片的な思考や行動をするのは容易である。しかし、流れを中心として構造化された思考や行動は、なかなかできない。できていても気づけなかったり、うまく流れを切り出すことができなかったりする。思考や行動だけで文章を作ることができるわけではなく、執筆作業においては流れを作る意味付けのプロセスが重要な役割を演じる。ツイートは毎日できてもブログは書けないというのは、そういう理屈である。(もちろん時間の問題もある。部分と全体を往復して書き進めないとならないため、構想時の予定よりも書くのに時間がかかってしまうことが多い。)

ところで、「文章が文章たりえるには、文章を貫く流れが必要である」と言ったが、これは生命と似ていると思う。生命も、生命全体を貫く"何か"によって、構成要素の総和以上の"何か"を生み出しているように見える。生命体である私から文章が生み出されるというのは、それ自体興味深い。

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