2020年4月8日水曜日

自分の恋愛について考える回

恋愛に関して最近頭をめぐっている思考の内容を、とりとめもなく書く。

1.
マッチングアプリに登録したのは、「彼女」のことを想い続けることがいい加減辛くなってきたからだった。周りに異性がいないという環境が、ますます自分の中の絶望感を深めていた。だから、現状のドブ沼から這い上がるためには、まずは異性との接点を増やす必要があった。そのための手段がマッチングアプリだった。第一の目標は、異性と接する中で、自分の中の「彼女」の重みを少しずつ減らしていくことだった。もちろん、首尾よく交際につなげることができれば申し分ない。ただ、交際のための心の準備はできていないままマッチングアプリを始めることにはなってしまったし、今もなお心の準備が完了しているとは言い難い。
連絡先を交換している相手は数人いる。同年代の異性と繋がって、色々な話をするのは実際のところ楽しかった。交際のための素地が自分の中で整っていないことに関しては申し訳なさを覚えるものの、知り合った相手と過ごす時間は確実に私にとって癒しだった。私の試みは、少しずつ功を奏しつつあるように思われる。

2.
後悔するのは避けたい。自分が後悔したくないというのもそうであるし、「彼女」にも後悔はしてほしくない。「彼女」自身が私からの一切を無視することを選んだのだから仕方あるまいという諦念と、このままでは「彼女」は後悔や迷いに苛まれ続けるのではないかという不安が自分の心に同居している。
私はまだ「彼女」のことを諦めることができないでいる。それは、「彼女」の心の中にまだ後悔や迷いが残っているのではないかと思えてならないからだ。もし、「彼女」が私のことをなんとも思っていない、私は全くタイプでない、だから私を振ったのだ、というのであれば、私は潔く諦めるつもりでいる。他に好きな人がいるというのであれば、それを応援するくらいの覚悟はできている。だが、彼女は私に何も教えてはくれなかった。彼女の本心がわからないまま、あれから一年が経とうとしている。私にはそれがたまらなく苦しい。
「(私)のことを恋人として見ることはできない」という言葉は、mayなのかcanなのかで大きく意味が変わってくる。私は、彼女が心のどこかで私のことを好いていたのではないだろうかという希望を捨てきることができていない。だから、振られたと言っても、あたかもずっと保留にされ続けているかのようなもどかしさと苦しさを感じている。
ずっと恋愛沙汰と無縁で生きてきた真面目な性格の「彼女」が、恋愛に慎重になるのは納得できるところである。だからこそ、私を振った後の彼女と、今後の関係について一度きちんと話し合いをしたかった。彼女が私を選ぶのか、あるいは他の誰かを選ぶのか、はたまた誰も選ばないのかは、結局のところ私にとって最重要の問題ではない。「彼女」は、私の初恋の人である以前に、尊敬すべき私の大切な友人である。彼女が迷いなくそれが本心であるというのなら、どんな選択であろうと尊重する。そのとき、彼女が私を選ばなかったとしても、きっと彼女は私を友達にしてくれるはずだ。「私はまだ「彼女」のことを諦めることができないでいる」というのは、「「彼女」と友達になることを諦めていない」という意味だ。
彼女が私を振ることは、彼女が1日で決めたことだ。彼女の中には、早く返事しないといけないという焦りがあったのではなかろうか。そして、「(私)を振ったからには(私)とは友達でいられない」と結論ありきの行動になってしまっているのではなかろうか。別に私は今更いくら傷ついたって構わないし、彼女にはそんな小さなことを気にしてほしくない。本当に私のことが嫌いだというのなら、「ゴキブリ以下の存在。二度と目にしたくない」とはっきり言ってもらっても構わないくらいだ。いや、むしろそう言ってもらえたらどれだけ私にとって救いとなることだろうか。
私は、彼女は自分に初めて告白してきた人なら誰でも振ったのではないかと踏んでいる。彼女が自分自身の内面とじっくりと向き合うことを促し、彼女の迷いを晴らすことは、初めて彼女に告白した男である私が果たさねばならない責務のように思われる。それを果たせていないことが、私の最大の心残りだ。

3.
「恋人」という概念は、一人の人間に役割を詰め込みすぎているように思われる。一緒にお話ししたい、一緒に趣味を楽しみたいという精神的な欲求であったり、手を繋ぎたい、接吻したいという肉体的な欲求であったり、結婚したい、何十年にも渡ってそばにいたいといった将来像であったりが、「恋」というラベルにマスクされる形で一人の生身の人間に押し付けられているのだ。かつては好き合っていた多くのカップルが結果として破綻に陥っているのもむべなるかなである。
恋をするとなんだかその対象が最高の相手のように感じられてくるわけであるが、結局のところそれは自分で自分を騙している欺瞞でしかない。いくら魅力的な異性といっても、生身の人間である以上、ある面で魅力的であっても他の面では魅力的でないというのが通常である。異性に対して感じる欲求の種類が複数ある以上、主として感じる欲求の種類も相手に応じて変わってくる。しかしながら、Aさんを選んだからといって、Bさんに感じていた欲求が消えて無くなるわけではない。異性との接点が増えてくると、このように並列化された異性の中で一体誰を選び取るのかというのが問題となってくる。最終的な決め手は容姿かもしれないし、趣味かもしれないし、言葉にできない雰囲気なのかもしれない。異性を選ぶ、誰か一人この人だと決めてしまうということは、異性を通じて自分の欲求を選び取ることでもある。選び取られなかった欲求は、せいぜい部分的にしか叶うことがない。
一度恋に落ちてしまえばこれは問題とならないのだろうし、多くの人はそうして問題を"解消"しているのだろう。だが、私のように思考先行で感情がじわじわじわじわついてくるというタイプの場合、これは重大な問題だ。何人いても問題とならない友人と違って、恋人は本質的に唯一の存在である。一方で私の中の欲求は唯一ではない。このギャップは必然的に葛藤を生む。感情の赴くままに任せきり、こういった葛藤から目を背けるというのは、後々に破綻を招くたちの悪い思考停止であるように感じられる。葛藤と向き合わない、葛藤の"解決"を放棄した恋というのは、なんだか欺瞞を欺瞞で上塗りして作りあげられた代物のように思われるのだ。

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