麻原彰晃らが刑死したそうだ。
オウム真理教による一連の事件を眺めてみて、改めて恐怖を覚えた。
彼らは、1995年まで数々の事件の揉み消しに成功している。その上、地下鉄サリン事件にしても、確定的証拠が見つかって検挙に至ったわけではなく、微罪で逮捕した林郁夫の供述によって教団の関与が明らかになったのだという。教団がもっと狡猾で、もっと"うまく"やっていたならば、もっと長期に渡って凶悪犯罪を犯しつづけることが可能だっただろうし、大量のサリンでもっと大規模なテロを行うことも可能だっただろう。そしてそれは、(荒唐無稽な指示を出していたと言われる)村井秀夫に代わって、例えば土谷正実などが指揮をとっていたら、くらいの違いで実現されていたのではないかと感じられるのだ。
更に、教団は敵対する者に平気で口封じをする体質であった。教団は初期に脱走しようとした男性信者を殺害したことを皮切りに、教団内部の人間であっても殺人を実行してきている。地下鉄サリン事件の実行犯の一人である林泰男は、自分がリンチを受けることを恐れてサリン散布を実行したのだという。人を殺すという判断がとても他人事には思えないのである。首を絞めるだとか、刺すだとか行った直接的な殺害と違って、サリンを撒いて逃げたり、あるいは彼らの送迎役を担ったりするくらいなら、マインドコントロールを受けたり追い詰められたりすれば自分でもできそうな感じがする。それがどうにも恐ろしい。
私がオウム真理教の事件について初めて知ったのは確か小学生の頃で、誰かは忘れたのだが、担任の先生から聞いたのだと思う。そのときに、「オウム真理教の事件では頭のいい人たちが大規模殺人を犯した。君も頭がいいけれども、そういうのに引っかからないよう気をつけなさい」といった感じのことを言われたのを、未だに引っかかりをもって覚えている。私は、自分はもしかしたら犯罪者になるのではないかという恐怖感をずっと持っている。オウム真理教の事件は、ゆがんだエリート意識の結果として語られることも多いが、私は単に洗脳の結果であって、カルトに付け込まれる余地も、殺人犯になる素質も、ほとんど誰もが持っていると考えている。エリートが重用されて殺人の計画や実行に抜擢されただけだ、そもそもエリートだけではサリン事件は実行できず、それ以外の様々な信者がいなければサリンを作る資金もなかっただろう、という意見である。
しかし、確信は持てない。私は、小学生のときのあの先生の言葉を思い出すたびに、あの先生は「自分は犯罪者にはならない、自分には関係ない」と思っていたのではないかと考えて苛立ちを覚えたり、いやむしろ普通の人はどうやってもサリンを撒くなんてできなくて、サリンを撒けると思える自分の方が異常なのではないかと不安に思ったりして、色々な考えがないまぜになった、得体の知れない恐怖感を覚えるのである。
2018年7月8日日曜日
2018年7月1日日曜日
「続かぬ家計簿」の話
おととい、次の記事を投稿した。
続かぬ家計簿
これは私が2018年に書いた記事の中で今のところ一番のお気に入りである(*1)。これができるまでの経緯を述べていこう。
この記事は、書き始めたときのコンセプトは「家計を測ろうとすると測れなくなるパラドキシカルな関係」であった。したがって、
改善されたので、やっぱり無KのKにしようかと思った。しかし、オチが少し弱いなと思った。先ほどのpH指示薬と合わせて、比喩が特徴的な文章になったので、天丼になるよう
さて、細胞はデリケートで、蛍光観察が細胞に及ぼす影響はpH指示薬よりも大きい。この知識と、先ほどの比喩を活かして次のように論を展開した。
こういうこともあって私は院試勉強に集中できていない(*4)のである。
(*1)ちなみに2016年は読解力の重要性を示す1つの事例、2017年は砂漠で砂を売る23の方法である。
(*2)使っては屁理屈を言うなと余計怒られていた。
(*3)「メモ: 最近読んだ論文(2018年6月その2)」の2)を参照。
(*4)「院試勉強に集中できない」を参照。
続かぬ家計簿
これは私が2018年に書いた記事の中で今のところ一番のお気に入りである(*1)。これができるまでの経緯を述べていこう。
この記事は、書き始めたときのコンセプトは「家計を測ろうとすると測れなくなるパラドキシカルな関係」であった。したがって、
つまり、家計簿をつけることそれ自体が家計にバイアスをかけるという構造がある。家計簿をつけることで知りたいのは私の平均的な支出であるのに、家計簿をつけるせいで支出が抑制され本来の支出を見ることができない。ちょうど、pHを調べるためにpH指示薬を加えるとそれによって水素イオン濃度が変化してしまうのと同じである。のあたりで終わるつもりだった。友達がblogを更新しろ更新しろと急かすので、あまり面白くならなさそうで放置していたネタを使って一つ書いて見たものの、案の定あまり面白くならないなあと思っていた。サクッと仕上げてサブブログ送りにするかと考えつつ、シメとして
これを克服するためには家計簿をつけ続けるしかない。それは分かっているのだが、家計簿をつけるのはとにかく面倒なのだ。と書いた。ところが、ここから次の文が浮かんだ。
つけるべきだという理念と、つけるという実践の間には大きな隔たりがあるのだ。人類は世界平和を実現すべきであるのに、なかなか世界平和を実現できないのと似ている。この、「人類は世界平和を実現すべきであるのに、なかなか世界平和を実現できないようなもの」というのは、昔から宿題への着手を延々遅らせたり夜更かししたりして親に怒られたときにいつも使っていた(*2)論法で、私には馴染み深いものだった。このため、先ほどのシメの文からスムーズに思い浮かんだ。
改善されたので、やっぱり無KのKにしようかと思った。しかし、オチが少し弱いなと思った。先ほどのpH指示薬と合わせて、比喩が特徴的な文章になったので、天丼になるよう
ちょうど、人類は世界平和を実現すべきであるのに、なかなか世界平和を実現できないのと同じである。と改めた。さらにここから少し悩んで考えて、先ほどのpH指示薬からの連想で、蛍光物質が思い浮かんだ。これは、おとといが蛍光プローブが活躍する論文(*3)についてのセミナーの当日だったためである。統合自然科学科で幅広いことを学んで数学物理化学生物の全てが分からない人材と化しているが、幅広い知識もたまには役に立つこともあるものかと思った。
さて、細胞はデリケートで、蛍光観察が細胞に及ぼす影響はpH指示薬よりも大きい。この知識と、先ほどの比喩を活かして次のように論を展開した。
今まで述べてきたように、家計簿はpH指示薬であって、かつ、細胞を光らせる標識でもあり、更には世界平和でもあった。その類推でいくと、私の場合も、家計簿をつけ続けるとそのダメージで死んでしまうかもしれない。人類も、世界平和が実現されればそのショックで滅亡してしまうかもしれない。「測ろうとすると測れなくなるパラドキシカルな関係」「理念と実践の間の隔たり」という「構造」の類似性を述べた文章だったのを、対応関係をすり替えて話を混乱させてみた。ここまでくれば結論を書くのは簡単だった。
こう考えれば、私が家計簿をつけないことは人類の滅亡を防いでいるといえるのではなかろうか。こうなってはやむをえない。大変不本意ではあるが、家計簿をつけるのは諦めるより他にない。あとは推敲して表現と話の流れを整え投稿するだけだった。とはいえ、サクッと適当に投稿するつもりだったのが、きちんと推敲すべき文章になった結果、予想より大幅に時間がかかってしまった。
こういうこともあって私は院試勉強に集中できていない(*4)のである。
(*1)ちなみに2016年は読解力の重要性を示す1つの事例、2017年は砂漠で砂を売る23の方法である。
(*2)使っては屁理屈を言うなと余計怒られていた。
(*3)「メモ: 最近読んだ論文(2018年6月その2)」の2)を参照。
(*4)「院試勉強に集中できない」を参照。
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