2023年2月12日日曜日

COVID-19への社会的対策についての考えの整理

先月末、友人と居酒屋で酒を飲んでいて、「新型コロナウイルス感染症対策に関して、社会的な制限の緩和は妥当かどうか」というテーマで議論になった。そのときに考えて話したことを忘れないうちにまとめておく。

まず、この問題の対立軸は、概ね医療と経済活動の両立が困難だという点にあると考えてよいだろう。従って、制限を強めるにしても弱めるにしても、いずれにせよメリットデメリットがあるということになる。
私(や一緒にいた友人)は感染症対策の専門家でもなければ政策の専門家でもないため、この根幹部分について深い議論をすることは期待できない。しかし、我々は一人の有権者として、よくわからないながらも、よくわからないなりになんらかの決断をしながら政治に臨んでいく必要がある。
私は、制限の度合いをどこにおくかという結論自体はさほど重要でないと考える。我々市民が重きをおくべきは、むしろ結論に至るまでの過程だろう。つまり、コロナ禍が長引く中で生じた分断をいかにして埋めながら政治的結論を下していくかという問題である。
医療従事者に強い制限を求める人が多いのは、医療がパンクする事態を防ぎたいという考えからだろう。医療がパンクすると、適切な医療があれば助かったかもしれない命が助からないという事態が起こる。それを避けようとすれば、一部の現場に過重な負担がかかってしまう。
医療従事者ではない私のような人からすると、コロナで死ぬ人の姿はなかなか見えない。死者数で見れば過去最大クラスと言ってよい波が来ているのにもかかわらず、である。つまり、コロナによる死は医療を通して透明化されているのだ。普通に暮らしているとコロナによる死はなかなか見えないが、その分医療関係者が多くの死に接している。その心理的負担は察するに余りある。
そこで、どのような政策を選ぶにせよ、政治家と、政治家を選ぶ有権者の側が、「仮に救えなかった命が出たとしても、それはこの政策を選んだ我々の側に責任がある。医療従事者の側で気負いすぎないようにしてほしい」というメッセージを発していく必要がある。つまり、人の死の重さを社会全担で分担していくということだ。
一方で、「一人一人はかけがえのない存在であり、命はこの上なく大切なものだ」という建前を重んじるあまり、「人の死は仕方のないことだ」というメッセージを発しにくい世の中になっているように感じている。確かに命は大切で、失われた命は取り返しのつかないものだが、死を受け入れる態度がなければ話が進んでいかない。他の大切なものを見失うことにもなるし、何よりコロナが根絶するまでひたすら不毛な対立が続くだけになりかねない。
以上のことから、人が死ぬことを受け入れる態度と、自分の判断で結果的に人を死なせてしまうことへの責任感の両方を持ちながら、一有権者として政策を調整していかなければならない、という結論に至っている。

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・コロナ感染者数が増えると経済活動が妨げられる効果も発生するため、それを勘案しながら政策を決めることが要求される。個人的には、この外部不経済のような効果は過小に評価されているように感じている。
・逆に、税収が減りすぎると医療に回す予算がなくなるという効果も考えられる。事態は複雑だ。
・「自粛の風潮を強めると食べるのに困る人が増えて自殺者が増える」という意見をもらったが、食料の生産量自体が大きく落ちる理屈はないわけで、わかるようなわからないようなという気分である。自殺問題をこの対立軸で論じるには何か見落としがある気がするが、よくわからない。