2019年11月11日月曜日

物理学と哲学の接点: 「谷村ノート」の感想


いわゆる「谷村ノート」が議論を呼んでいる。物理学者と哲学者が「時間」について議論して、話が噛み合わなかったというのが事の発端で、その議論について物理学者側から振り返ったものがこのノートのようである。
私は学部で物理を少し勉強したことがあるだけの人間で、特にこれらの問題について深い知識を持ち合わせているわけではない。問題のノートに関しても、よく分からない部分、興味を持てずに読み飛ばした部分が多々あった。そもそも元となった本も読んでいない。従って私の感想など傾聴に値するものではないだろうが、さとう君の「是非いろんな意見が聞きたい」というツイートを(自意識過剰にも)このブログに対するリクエストであると解釈して、つらつらと書いてみることにする。
なお、私が読んだのは2019年11月5日の増補版であり、ページ数の表記もそれに従うことにする。

・「物理的状態に帰すことのできない意識状態があるか?」(p. 13)
私の考え:「青山氏の言う通り、『細胞内のすべての分子・原子・電子たちが物理的・化学的にまったく同一の状態であり、ただ意識状態だけが異なっているということは、あり得る』と思う」

私は、谷村氏の言う通り、『人間も究極的には原子や電子からなる物理的なシステムである』と信じる。だが、その後に続く『物理状態ではない「何らかの状態」が人間やその他の動物に備わっているとは私には思えない』の部分については賛成しかねる。私は、『本心から、「我々が抱く主観的な意識は、身体については物理的にまったく同一状態であっても、意識状態は異なっていることがある。あるいは2つのシステムが物理的にまったく同一の状態にありながら、意識状態だけは異なるような事態が、現実にあり得る」と信じて』いる。このことについて少し説明したい。
そもそも、2つの物理状態をとってきて、それらが「同一」であるとはどういうことだろうか。それは、その2つの物理状態が、あらゆる(物理的)測定において、同じ測定結果を与えるということに他ならない。すなわち、物理状態が同じであるときに「同じ」であると言えるのは、測定可能な物理量とその組み合わせで表現できるものに限られる。では、意識は物理量とその組み合わせだけで表現できるのだろうか。
私は、必ずしもそうであるとは思わない。これは人間の知覚の限界であり、それに由来する測定という方法の限界である。私は、例えば頬をつねられている人を見ると、「痛そうだ」と思う。これは、その人の「痛み」そのものを共有しているからではない。私が頬をつねられたときに「痛い」というのは、似たような状況で以前にも周りの人が「痛い」と言っていたからである。私と他人が共有できるのは状況だけである。以前に見聞したのと似たような状況になったとき、私は「おそらくこれが「痛い」ということなのだろう」と推測して、「痛い」というのだ。
私のいう「痛い」が、他人の「痛い」と同じである保証はどこにもない。「痛い」という感覚自体は、どうやってもその人と共有することはできない。例えば私の複製を作り、その複製に私と全く同じ刺激を与え、私と全く同じ物理状態を持った人間「私'」を作り上げたとしよう。しかし、その「私'」が「私」と同じ「痛み」を感じている保証がどこにあるだろうか。どうすれば二つの「痛み」が同一であることを証明できるだろうか。そんなことはできないのである。仮に私が超能力者で、「私'」と互いにテレパシーを送り合うことができたとしても無理である。私が受け取った感覚が、「私'」の送った感覚と同一であることはどうやっても分からない。いくら脳や神経を構成する物質のありようを調べたとしても、もし脳のハミルトニアンを書き下せたとしても、そこから私の「感覚」は演繹的には出てこない。「調べたところ、あなたの脳は今これこれの状態になっています。つまりあなたは痛がっていますね」ということはできるだろう。だが、「脳がこれこれの状態にある」とき「痛い」のだ、ということは、「痛がっている」人間をたくさん作って、その状態を調べたからこそいえるのだ。「痛み」そのものを共有できない以上、「痛がっている」から「痛い」というのは必ずしも成り立つわけではない。
意識状態が物理状態と本質的に異なるのは、意識状態には原理的に測定不可能な部分、実験的に検証不可能な部分が含まれているという点である。そして、その検証不可能な部分に非物理過程の入り込む余地が残されている。
意識について、どこまでが「検証可能か」を考えることには意味があるだろう。そして、哲学者の側には「原理的に検証不能だと分かっている部分」について、物理学者の側には「実際に実験で検証することが可能だと分かっている部分」について、それぞれの領域を少しずつ広げていく、ということを仕事として期待している。両者がぴったりとくっついて接し合ったとき、それぞれの領域を画定したということ、すなわち「意識の問題を解明した」ということになるだろう。
その一方で、実験的に検証不可能な部分について、言語を用いてあれやこれやということは、なんとでもいうことができる不毛な営みであると言わざるを得ない。そうした問題には、私は一切の興味を持つことができない。「クオリアは実在するか?」などは、そうした私の興味の埒外の問題の具体例である。「原子・電子の物理状態ではない様式でクオリアは実在すると主張したいのであれば、それはどのような実在なのか説明してほしい」という谷村氏の要求は、物理学寄りの立場である私から見てもちょっと無理筋だと思う。

・「時間に「始まり」はあるか」 (p. 25)
内容に興味がなかったので、第3章のほとんどは読み飛ばした。検証不能な言説であるように見えるし、私はどうでもいいと思う。

・「我々の時間に関する言語と常識をもってして全宇宙の始まりの頃の時間や全宇宙の時間の全貌を語ったり推しはかったりできるだろうか?」(p. 57)
当然、できるはずがない。私が哲学者による言語的考察に期待するのは、言葉の乱用による混乱を解きほぐすこと、無意味な問いを排除すること、人間の思考の原理的限界を明らかにすること、「痛い」というような言葉の用法の本質を解明すること、などである(*1)。
p. 57で、谷村氏は次のように言っている。
「1 個の電子は、左の窓と右の窓の場所に同時に見つかることはない」という命題は、 「1 個」とか「場所」とか「同時」の語義からして、真であるに決まっているように思 える。この命題は量子論においても現実の電子においても正しい.また、上の命題から 「1 個の電子は、左の窓と右の窓のどちらか一方のみを通る」と推論したくなる。しかし、量子論によればこの推論は正しくないし、実験事実もこの命題を支持しない。
私が哲学の側から物理学の側へのフィードバックとして期待するのは、まさにこのような点に関する気づきである。二重スリット実験に初めて接したとき、よほどの異常者でもなければ、誰も「1 個の電子が、左の窓と右の窓の両方を通った」などとは思わないだろう。だが、谷村氏が指摘する通り、「1 個の電子は、左の窓と右の窓の場所に同時に見つかることはない」から「1 個の電子は、左の窓と右の窓のどちらか一方のみを通る」は導けないのだ。つまり、現実世界のありように関わらず、可能世界として「1 個の電子は、左の窓と右の窓の場所に同時に見つかることはない」かつ「1 個の電子が、左の窓と右の窓の両方を通る」というのはありうるのだ。そして、(現実世界は置いておいて)可能世界としてどういう理論があり得るかというのは、哲学で扱って答えを導き出せる問題だと思う。そうして得られた気付きは、量子論を構築するための一つの種となってくるだろう。もちろん、可能世界に関する考察がきちんと現実世界に関する問いへの解答として機能するためには、物理学の十分な知識が必要となってくるはずである。そこに誤解があるかどうかをチェックする段階では、物理学者の出番ということになる。
私は、哲学者に対して、我々が日常的直観に基づき作り上げたロジックの穴を見つけるという仕事を期待している。そうした仕事が、まだ理論的に説明できていない現象の思わぬエレガントな説明の仕方を考え出すための手がかりになってくるはずである。
もし本当に哲学者が現実世界を無視して可能世界のことだけに興味を持っているのであれば、なんとでも言えるだろうし勝手にやっていてくれとしかいいようがない。多分それは杞憂だろうと思っている。

・「○○は実在するか」(p. 58)
存在性、実在性の問題は、確かに言語的考察で解明できないだろう。この手の問題は難しいので、私は考えたくないし、考えても絶対に自分には分からないという確信がある。だから見なかったことにしようと思う。

・「「太陽が地球の周りを回っている」という直観の否定ほど、現在の物理学は明確に「時間が経過する」という直観を否定できているのだろうか」(p. 62)
このノートで引用されている森田氏の主張は、毎回毎回意味不明だと思う。その意味不明さは、谷村氏が指摘している通りである。なんでこんなに意味不明な文章になっているのかよく分からないが、ともかく、私の理解の範疇を超えていることは確かである。

・「哲学者たちはそうやって、百年経っても、千年経っても、他の学問の知識の蓄積・洗練とは無関係に、大いなる疑問を掲げて、振り出しに戻って、議論を繰り返すつもりなのだろうか。」(p. 70)
これは実際のところどうなのだろう。私も気になる。
私は、先の量子論のくだりで触れたように、他の学問が発展すればそれだけ哲学で扱うべき問題も(大きな問題に立ち返るのではなく)細分化されて増えてくると思っているし、哲学者たちはこの質問に対してNOと答えてくれると信じたい。哲学者がどういう考え方をしているのか知らないが、細分化された小さな問題に一つ一つ地道に答えていくことがやがて大きな問題を解明することにつながる、というのが普通の考え方だろう。逆に、この質問にYESと答えるようであれば、あまりにも常識離れした態度であるし、他の分野の研究者から「哲学は単なる言葉遊びだ」と見なされても文句は言えまい。
哲学も問題を立ててそれを解くために行われている営為だと信じているし、そうでないのなら、それは真摯な態度ではないと思う。哲学のほとんどは訳が分からないため、私のような素人にとっては、どっちなのか全くもって区別がつかない。こう言った異分野交流の場でくらい、哲学者の側からもうちょっと歩み寄ってくれてもいいのになと思う。

・「絶対的現在は存在するか?」、「時間の経過は実在するか?」(p. 101)
この辺の哲学者の問題意識はさっぱり分からない。何をもって「存在」というのかがよく分からないので、何も分からないしコメントのしようがない。森田氏には、分からせようという気があるのだろうか。『少しでもこの問題意識を(それが真の問題だと考えるかどうかは別として)共有していただけたなら成功であるといえるだろう』というわりに、あまりにも言っていることが難解すぎるし、私としては好感が持てないなと感じた。
この点、谷村氏の「絶対的現在は定められるか?」「時間の経過という概念は物理的な意味を持つか?」という問題意識は明快である。解説もわかりやすく、印象がいい。

・全体的に
あとがきを読んで、谷村氏は真摯な人だなと思った。再批判を恐れず問題意識を文章を通じて明確にするという姿勢は尊敬する。言っていることの意味が分かる、何を問題としているのかが理解できるというだけでも、文章を読んでいて非常に安心感がある。物理の解説もきっと明快で上手なのだろう。
こうした真摯な人をもってしても、対話が成立しなかったというのは残念である。どうしたらいいのかは、ちょっと私には分からない。物理学者の側からは、これ以上できることはほとんど何もないのではないかとすら思わされる。それくらい谷村氏の態度は真摯である。尤も、哲学の価値に関して、そこまで言わなくてもと思う部分はある。だが、ここまで歩み寄ってここまで思索を深めた上でこの噛み合わなさを体験しているのだから、それも仕方があるまい。
難解極まる森田氏の主張はおいておいて、青山氏の言っていることはそれほど非科学的だとは感じなかった。谷村氏は哲学者の態度について色々な批判を述べているが、個人的には、谷村氏の批判は当たっていないと信じたいところである。

(*1)この考えは、大部分、苫野一徳氏の連載「はじめての哲学的思考」に由来している。

[11/11 追記1]
森田氏と谷村氏のやり取りは(青山氏とのやり取り以上に根本的なレベルで)噛み合っていない。森田氏はもともと物理学の研究で博士号を取った人のようである。それなのに、自ら物理学と哲学の分断を招いてどうするのだろうか。森田氏は、哲学者の重要な仕事である(と私が思っている)論点の整理を怠っているように思われる。その上で『「噛み合わないままに終わりました、そもそも問題が共有されていませんでした(伝わっていませんでした)。噛み合っていない点を明らかにしていくことが今後の有意義な課題です」で済ま』(p. 101)すような態度を取るようでは、不誠実との誹りを免れることはできないだろう。これでは、何もしていないも同然、科学哲学者としての職務放棄であるように見えてしまう。

[11/11 追記2]
青山氏との議論の噛み合わなさは、やはり「現象」という言葉の使い方における相違に一つの原因があるように見受けられる。それともう一つは「実在」である。これは単なる前提の違いによる悲しいすれ違い以上のものではなく、2章で谷村氏が展開している哲学批判(具体的には、「ほんのちょっとでも疑う余地があると思うと〜」(p. 23)のくだりなど)はほとんど当たらないものと思う。つまり、2.5節は藁人形論法になっているということである。唯物論の可能性と限界を画定することは、哲学上の重要な問題の1つだというのが私の認識である。唯物論の可能性と限界の画定作業というのは、「直観的に見て唯物論的方法で扱えそうなことがらを研究の対象にする」(p. 22)物理学者の在り方に対し、その直観の妥当性を検証することだと言い換えても良い。
ただ、哲学が(metaphysics: 形而上学というように)メタな学問であるからには、哲学者の方こそ異分野交流の際にその辺りの言葉の使い方に敏感になるべきだろう。もちろん、青山氏は言葉の使い方に敏感であるからこそ「クオリア」という用語を避けるなどしているのだろうが、これは異分野との対話なのだから、その意図が伝わらないのは褒められたことではない。(苫野一徳氏の考えに基づけば)そういった指摘をして、議論が建設的になるよう軌道修正することこそが哲学者の本領であるだろう。言語を扱った仕事をするからには、哲学者には、他の分野の人にも伝わるような問題設定の明晰な言語化をお願いしたいところである。
今回は哲学論文に物理学者がコメントを付けるという形であったが、一度その逆をやってみてほしいものだ。すなわち、物理論文を取り上げて、その哲学的意義を物理学者向けに解説するという営みである。これをすれば、谷村氏がいかに困難な仕事を成し遂げていたのか、哲学者の側にも実感を持って了解してもらえるのではないだろうか。

[11/12 追記3]
Twitterで少し補足をした。

量子状態の同一性であるが、第一義的には、「同じ方法で作った状態は同じ量子状態」とみなすことで定義される(清水 明『量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために』 2.6節)。とはいえ、(どんな物理理論においても)物理状態の同一性の基盤が実験的な区別可能性にあることは変わらない。なぜなら、その第一義的定義がwell-definedであることは、自然科学において再現性が成り立っているという形で実験的に検証されることだからだ。なお、「痛み」に関する私の考察は、この『量子論の基礎』における同一性の定義をベースに展開したものである。

[11/12 追記4]
森田氏の主張の意味不明さについて考えていたが、谷村氏も指摘している通り、アプローチそのものに無理があるように見える。時間の客観的性質を哲学的考察から理解していくというのは、いくらなんでも無理だろう。物事の客観的性質は物理学の領分であって、物理学で解明不能な物事の客観的性質については言及するだけ無駄である、というのが私の立場である。主観性が本質的に介在する問題 ーー物理学で解明可能な問題はどこまでか、はこれに含まれる。測定とその解釈は人間の営みに他ならないからだーー こそを哲学的に考察していくべきだろう。どうも、取り上げている問題に主観性が本質的に関わっているかどうか、が青山氏の主張と森田氏の主張を大きく隔てているような気がする。例えば、時間の流れは主観の中で作り出されるといった仮定をおけば、似たような問題をもっと有意味に問うことができるのではないだろうか。
以上の考察から私の見解をまとめると、第二章のすれ違いは異分野コミュニケーションが成熟すれば自然に解決されるだろう、第三章については森田氏がスタート地点からして常人には理解不能なアプローチを取っているのが物別れの原因であり谷村氏の指摘は自然で妥当、といったところだろうか。もし森田氏が谷村氏の批判は誤解に基づいたものだというのであれば、それはそれで思考内容の伝え方に関する根本的な見直しを求めたい。

[11/12 追記5]
例えば、「我々が生きる意味とは何か」というのは、どう答えようとも合意に達しようのない無価値な問いであると思う。一方、「我々はどんなときに生きる意味を感じるか」は問う価値のある問題に見える。これは、客観性に関する問題を主観性に関する問題に書き換えたものだと見ることができる。主観性をできるだけ排除した世界の記述を行うのであれば、自然科学はその最も成功した方法論であり、(今の人類は)自然科学の立場で、数式を用いつつ議論を進めていくしかない。一方、「ある対象が人にとってどのように認識されるか」「ある対象は人にとってどのように知覚されるか」すなわち「ある対象が人の心に対してどのような(青山氏のいう意味での)現象を引き起こすか」といった類の問題については、言語を用いて分析する哲学的方法論が有効であるように思われる。
科学的方法論で記述できない客観的問題は、(現在と、その延長線上にある)人類の手に負えない、考えるだけ無駄な問題(がほとんど)である。そのような領域については認識不能なのだから検証不能なことをいかようにもいうことができるし、認識不能な以上どうなっていたところで人類には一切の関係がない。私が森田氏の主張内容に興味が持てなかったのも、この「考えるだけ無駄な問題」の領域に立ち入ってしまっているように映ったからだ。
物理学者と哲学者が対話する場合は、主観性と客観性にどのようなウェイトを置いているのか、問題意識の設定から慎重に行う必要がある。今回は、ここで合意が取れていなかった、このすり合わせを怠ったがために、議論はすれ違いに終わってしまった。お互い議論の拠り所が違うのだから、ただ物理学者に論文を渡してコメントしろというのは土台無理な話である。何を物理学者に求めるのかを哲学者の中でまず明らかにした上で、「これこれに客観性に関わる問題がある。見解が欲しい」のような形で注意深く問題設定を行わねばならない。これは物理学者が哲学者に見解を求めるときも同様である。
竹田青嗣氏の「欲望相関性の原理」という概念がある。ざっくりとした私の理解で言えば、
  • 我々は世界を自分の欲望に応じて認識している。
  • 我々はそのことを自分で確かめることができる。
  • 認識の在り方を欲望以上に遡って確かめることは原理的にできない。
というものである。苫野一徳氏は、この欲望相関性の原理に自身の哲学の基礎を置いている。一般に哲学は厳密なロジックによるものだと認識されているが、人間の心理に深く根ざした問題を扱うという点で数学や物理とは大きく性格を異にしている。先ほどの「痛み」の測定可能性についての議論からわかるように、人間心理の全てを唯物論的思考で扱うことには大きな困難がある。そのため言語的分析が馴染むのであろうが、今回は問題設定が十分に伝わっていなかったがために、哲学的分析が物理学者には「徒手空拳」(p. 23)に見えてしまったのだろう。
「哲学の議論はどのようなときに意味のあるものとみなされるか」という問いを立てると、今回の一件は哲学的に分析する価値のある事例になるだろう。哲学者の側にはこの観点からのフィードバックも期待したいところである。
この事件は、「問題意識を明確にすることなしに、異分野の人がただ集まっただけでは不毛な議論しか生まれない」という教訓を示唆していると言えるだろう。

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